その身分、違うとき

最終更新: 2015/07/03

「ちがうとき」、ではなく、「たがうとき」と読ませたい。

なんとなく、ぼんやりしている。というのも、親友の樋口くんが結納したからである。って、本日の画像を見れば誰でもわかるであろう(掲載承諾済)。

それはきっと、きっとではなく文句なく喜ばしいことで、おめでとうとか、よかったよかった、めでたしめでたしとか、そういうことでいいんだろうけれど、どうして、そんな気持ちはわいてこない。

ふーん。そうですか。そういうお年頃ですものねえ、結婚適齢期ですし。そうですねえ、ええ、はあ、そうですなあ。やあ、元気? ああそう、そりゃあ元気でなによりですわ、ははは、というような、自分でも何を言ってんだかよくわからない、感じ。

たぶん、漠然と遠くなった気がするからだろう。いわゆる距離。

いままで同じ”身分”だからこそ分かり合えたことがあまりにも多かったのだと思う。

同じ大学生だった。同じような育ち、同じような経済状況。卒業してからは一緒に上京して、一緒のマンションに住み、お互いにフリーターで、相変わらずのみみっちい金銭感覚で、年金のこととかよくわかんねーよアハハ、ってやってたのが、今ではまがりなりにも正社員になって、年収がどうだとか、なんだかんだ年金は払わねばならん、貯金もしなければ、むむむ、その通り。そう、将来のことを考えねばならんのだよ、チミ。

そんな時間の流れ。大学一年で出会ってから、13年ほどが流れた。しかし、その間、これといった変化はなかったように思う。つまり、お互いの身分は相変わらず似たりよったりだったということだ。

身分、なんて表現は大仰かもしれない。しかし、ぼくがいま考えるに、身分という言葉はやけにしっくりとくる。

いつか、樋口がいまの彼女ではない彼女と付き合っていたとき、今日は絵を描くから会えないと言うと不満を漏らされ、理解されないことをこぼしていた。

もちろん、ぼくはその感覚を理解できる。なぜならぼくも絵を描くから。同じ感覚を持っているから。

同じ身分ということは、共通感覚、共有できる部分が多いということだ。それは、人と人が共に過ごし、泣き笑いする中で、もっとも大きな要素だと、ぼくは思う。

だから、すこし、というか、かなりさびしい心持ちがする。

これから、樋口は独身ではなく妻帯者となる。自宅は一人住まう単なる部屋ではなく、家庭と呼ばれるものになる。じきに子供もでき、父親となり、いよいよ家庭は家庭となり、それこそ、その子供にとっての故郷となる。

ぼくも同じように、そのような流れに乗ればいい。しかし、そうでない場合――いまのところその可能性大だが――避けがたく価値観の差、生活の違いが生じ、日ごとにそれは大きくなってゆく。

それは互いの仲良くあろうというような努力とはまた別のものである。人間にとってもっとも重要なのは生活なのだ。日々迫りくる厳然たる生活を、一友人であるぼくがどうすることもできるわけがないだろう。

たとえば、今日は子供が熱を出しているから飲みには行けない、とか言われたとき。

もちろん、ぼくも鬼ではないので理解はできる。しかし、理解とは別の部分で、どうしようもない狂おしさを覚えるだろう。

同じ身分でなければ理解できないことは多いのだ。

逆に、同じ身分だからこそ理解できることが多いのだ。

なんて、つらつら書いたってなんの意味もないので、ぼくは静かに結婚式のスピーチでも考えるだけである。と言いつつ、わかりやすくネガティブなぼくは、いまはどこか遠くへ行きたい。そしてついでに消え去りたい。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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