ひとり暮らす孤独と悦楽

最終更新: 2015/07/03

前々からひとり暮らしがしたいと言っていたある人と、相当にひさしぶりに会った。

風の噂でその人がひとり暮らしを始めたらしいとは知っていたが、どうしているのかまでは知らなかった。

ひとり暮らしは楽しいかと聞くと、そうでもないと言った。予想以上に孤独で、つまらないと言うその口ぶりには、溜息にも似た実感がにじんでいた。

まあ、ひとり暮らしには向き不向きがあるからなとぼくは答えたが、それは、確かにそうだなと改めて考えた。

いま、とりあえずは13年に及ぶひとり暮らしを終えようとしているぼくではあるが、しかしその間、ひとり暮らしを孤独でつまらないと思ったことが、まったくと言っていいほどない。

高校も終わりに近づいた頃のぼくは、とにかくはひとりになって自分の自由自在に過ごせる空間を渇望していた。そして大学に進み、実際にひとり暮らしてみると、その願望は完全に叶えられた。

さびしくはなかった。洗濯や掃除が面倒だとも思わなかった。誰かのおはようやおかえりやが無いことは、むしろ快かった。部屋の造作のすべてはぼくの自由であり、日々の一切はぼくの支配下にあり完全な自由であった。

正直、その頃のぼくは、親のことを毎月お金を振り込んでくれるロボットだと思っていた。今では一応、感謝の念が少なからずあるのだが、その頃のぼくは、確かにそのように思っていた。

万事が極端な性格なのである。親兄弟、親戚、そして数人の友達、そういった存在が無いことは、ぼくをただただ喜ばせた。

ぼくの場合は、である。しかし、その人はその人なりに自発的に心からひとり暮らしがしたいと望み、そうしたのである。

にも関わらず、想像と現実は違った。

よく言われることだが、思うことと、実際にやってみることは絶対的に違うのだ。

それがもっとも顕著な例としては、「自殺しようと思うことと、実際に自殺することとは絶対的に違う」ということだろう。いや、もうひとつ「人を殺そうと思うことと、人を実際に殺すこととは絶対的に違う」も付け加えておこう。

何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、ぼくとしては、上記の例のようなことでない限りは、ちょっとでもやってみたいと想像したなら、とりあえずはやってみればいいのだと思う。

それで間違ったと思ったらやり直せばいいだけの話。二度と取り返しのつかないことなど、そうそうあるものではない。

臆病な人生に、なんの花実が咲くものか。

どうとでもなるのが人生である。どうにもならない人生があるとすれば、それは、どうとでもなる無限の可能性の人生の中において、"どうにもならない人生"を自分自身が選択しただけのことである。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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