石は投げつけないけれど

最終更新: 2017/08/22

公衆の面前でいちゃつくカップルは醜男醜女と相場は決まっている。

ちなみに醜男醜女は「ぶおとこしこめ」と読む。語感が大事である。

昨日も電車内でその類の醜男醜女に遭遇した。着席する彼女、立てる彼氏の図である。

彼女は終始うつむき加減で、その目の前に直立する彼氏が頭をなで続ける。妙に憂いを帯びた顔つきで、頭をなでる。そして時にはあごもなでる。まるで猫をごろごろ言わせるように、なでる。

なでる、なでる、愛でる。なでる、なでる、愛でる。電車内で。衆人環視のただ中で。しかしそれでも、尊い愛の営みではあるかと思われるので、一応の敬意は払いたい。

しかし、思う。醜男でも醜女でも、美男でも美女でも、そこにある恋心、感情や幸福感、満足感や周囲が見えない感は、結局、同じなんだろうなと。

だけど人々は往々にして醜男醜女の醜態を(醜の字が連続すると字面がひどい)見苦しいものとし、美男美女の醜態は醜態ではなく媚態としてとらえる。

そして願わくば美男美女に、自分もその部類の人になりたいが、しかし現実はさといもの煮っころがしかごぼうのきんぴらみたいな奴らがお手てつないで新たな創作料理が生まれそうな感じで接吻抱擁してとめどないのである。

しかしまた、思う。美的感覚、美の基準というのは実に相対的なものである。絶対的な美など、人類が始まって以来存在したためしはない。いやいや、太陽や月、山・川、海などは、誰が見たって美しいと思われていたではないかという人もあろうが、それは美というよりも礼賛や信仰であり、もっと、たとえば古来西洋では森は魔女が住むものとされ、それは恐れるもの、遠ざけるものではあっても決して美しく尊ぶものではなかった。むしろ森を切り開くことこそが善であり、そうして形作られる都市こそが人間の住むべきところだという価値観があった。そんな例からもわかるように、まったくもって絶対の美などは存在しない。

そのように考えると、時空を超えて無限の辛辣な審美眼に耐えうる作品を創造せんとする美術家たるもの、現代の美女を醜女とし、現代の醜女を美女となして囲ってもよさそうなものだが、しかし、人の目に恐れおののく凡人なわたくしである。

現代の美の基準。それは確かに相対的なものではあるが、しかし、周囲の目、すなわち羨望か侮蔑かは、いつの時代も絶対的なものである。

そして男であるわたくしは、悲しいかな、羨望の眼差しを欲してしまう。そう、願わくば"現代の美女"を連れて歩きたく、愛でたく、まぐわいたく早漏、じゃなかった候。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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