差別用語の判断の見直しを求む
2017/08/22
なんか今日は選挙に立候補するかのようなタイトルになってしまった。
ちなみに画像は今日のお昼ご飯、魚づくし定食850円なりを食べた、あと。つまり食後。魚の正しい食べ方をネットで確認してから、背筋を伸ばして座り、丁寧に食べました。骨は身の向こう側にまとめて置く、身は上、下と食べ進める、そして魚はひっくり返さない、と。
そしてひとり悦に入る。こんなにきれいに正しく食べる30代独身男性は居ないであろう。しかも誰かと一緒に食べているわけではなくひとりで、である。ひとりなのだから好きなように適当に食べてもまったく問題はないのだが、しかしぼくは学校に入ってからというもの、とにかくきれいに美しく食べるよう強く心掛けているのである。
だって、きれいに美しく食べることは無条件に美徳である。それに普段からやっていないと、たとえば酔っぱらったりしたときには絶対に素が出てあらが出る。でも、普段からそうしていれば酔っ払ったときでさえもきれいに食べられるものなのである。
事実、すこし前にそうとうに酔っ払って家に帰ってかっぱえびせんを食べたのだが(あんまりよく覚えてないが)、朝になってかっぱえびせんを見ると、なんと、きちんとお皿に出されていたのである。なんというか、おれもここまできたかという、感無量としかいいようがない気持ちであった。まったく、大学のころ近所のコンビニから廃棄弁当を拾ってきて食べていた自分が見たら歯茎から血が出そうな変わりっぷりである。
と、こんなことを思いながらたっぷり30分くらいかけてきれいに食べたら妙に子供が欲しくなり、そして教育をしたいと、単なるエゴイズムだけど、きちんとしつけて育てたいと、もやもやと妄想したりした。箸を持たせて、おわんの持ち方に並べ方、食べ方や片付け方、あれや、これや、あれも、これも……ハァハァハァ……。
それはさておき今日もまたひとつ賢くなってしまった。昨日から読んでいる本、『「言葉の常備薬」呉 智英著、双葉社』によって、である。
その中にまたしてもおもしろい表現が出てきた。
百姓読み。
これは、たとえば「絢爛豪華」を「じゅんらんごうか」と読んでしまうような、知識の低さからくる誤読を指す言葉だそうである。ちなみに絢爛豪華は「けんらんごうか」である。さっそく百姓読みをしてしまった人は、今すぐにスマートフォンやPCを捨てて畑を耕しなさい。うん、悪いことは言わない。ぜひそうしなさい。
って、さっそくそのままの意味に使ったけど、この百姓は今でいう農家などのことではなく、実は百姓=庶民のことなのである。しかし最近の辞書では「百姓読み」は百姓の差別にあたるからと一斉に姿を消してしまったそうである。こんなバカげた話はないと、著者の呉さんは憤っておられるのであった。
確かに、百姓ばかりだったころは会社員などなかったわけだから、わざわざ農家をあげつらって馬鹿にする必要もないだろう。この言葉ができたのは、百姓なんて表現が自然に違和感なく定着するくらいだから、一般市民は学が無いのが当たり前だった時代であろう。そう考えると、まったくもって百姓読みで結構ではないか。いまさら「庶民読み」とあらためる必要もないだろうし、ましてや辞書から消す必要があるのだろうか。
言葉の成り立ちは歴史であり文化だと思う。その言葉の成り立ちを知ることは歴史を知ることでもある。たとえば「辻褄(つじつま)が合う」という表現がある。「辻」は裁縫で縫い目が十字に合う部分、「褄」は着物の裾の左右両端の部分であり、いずれもぴったりと合うべき部分である。だから筋道がよく通る、道理などが合うことを「辻褄が合う」という。つまり、着物を日常的に着ていた時代のほんとうに身近な身体的感覚から発生した言葉に違いないだろう。
こういう表現を「今の時代にそぐわない」「現代の価値観とかけ離れている」なんていう理由で無くしていいわけがない。せっかくの歴史と文化を捻じ曲げてどうするんだ。
現にいまぼくだって、百姓読みの意味を知って、百姓=庶民だということを知って、そういう表現が出てきて定着するような時代へと思いをはせたりしたわけである。それを辞書から消してしまうというようなことは、まったくもって文化の消失に他ならないと、このように思うわけであります、お騒がせしております、ご声援ありがとうございます、しんたく、しんた……お仕事ご苦労様です、しんたく、しんたくともにを、なにとぞよろしくお願いいたします。百姓読みという表現の辞書掲載復活を、必ずや、必ずや……お騒がせしております。ありがとうございます、ありがとうございます、ガー、ピー、ガガー。ガガガー……。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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