そこで倒れ、そこで死す

最終更新: 2017/08/22

突然ひとが倒れ込んだ@華の金曜日の小田急線成城学園前。
ひとが倒れた、と、悲鳴にも似た声が上がった。
ラッシュ時の人混みの足下に、たくさんの脚が林のように乱立しているところへ、ひとが倒れていた。ほんとうの林ならば木漏れ日がさすような隙間から、ぼくは見た。
数人のひとがホームへ駆け出して、駅員を呼びに走った。
ぼくも何か雰囲気に流されてホームに出て、そこで手を挙げて、すいませんと叫んだ。
思いがけず大きな声が出て、自分でも少し驚いて、でも構わずに何度か叫ぶと駅員が数人、駆けてきた。
倒れていたひとを、定年に近いとおぼしきその男性を、駅員が数人で抱きかかえ、ホームに移した。
駅員たちは、大丈夫ですか、お酒飲んでますか、立てますか、そんな言葉を矢継ぎ早にかけつつも、しかし巧みに「オッケー」という言葉を混ぜ込んだ。
すると、急病人があったためその対応をいたしました云々3分遅れで発車いたします申し訳ございませんでしたとアナウンスが流れ、プシュウ、ドアが締まり、ホームに倒れたままの急病人を残して、電車は走り出した。
その時、わけがわかっている同じ車両の人たちの中に、妙な一体感があった。それで、電車が走り出し、ドアのガラス越しに、倒れたまま動かない彼を見送るとき、どこか葬送のような、さようなら、さようなら、そしてありがとう、というようなえもいわれぬ優しさが漂っていた。
しかしもちろん別の車両では、ある者は舌打ちし、ある者は電話で、メールで、友人や恋人にあるいは家族に遅れを詫びたりしただろう。
電車がスピードに乗ったところで、もう一度、同じアナウンスが流れた。遅れたことを、もう一度謝っていた。
それはつまり、3分×1000人として、3000分の"損失"と考えるから謝ったのだろう
それが、この世界。
そんなことはわかりきっている。
しかし、民主主義とは、多数決とは、恐ろしいもののような気がした。あるいは、戦争の最前線を思わせた。
倒れた者は足手まといだから、置き去り、戦える我々は倒れるまで前進あるのみ。
ススメ、ススメ、ススメ、ススメェ。
誰かの苦しみを、その不幸を、ぼくらはその日、3分の遅れという、"あってはならないこと"として、この社会システムの中で消化した。
なぜなら、謝罪とは、常に"あってはならないこと"に対してなされる行為だからだ。
あってはならないから、小さな点は切り捨てて、大きな流れに従って進んでいく。
そうしてみんな構わず進んで行ってしまったけれど、その人は、それから、どうなったろう。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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