折にふれて思い出すのは加藤茶のこと
2017/08/22
まじめな話である。時どきふっと思い出すのだ。45歳も歳の差のある女性と再婚した加藤茶のことを。
ほとんど誹謗中傷にも近い、さまざまなことが言われているのを、ここでは繰り返すまい。ただ、思うのである。彼は幸せなのだろうかと。
むろん、幸せなんてはかないものだ。それに人の数だけ幸せの形がある。つまり、彼には彼の幸せがあり、他人はそれぞれ勝手に自分の身に置き換えて想像するしかない。
たとえば、彼は若さの失われた手のひらで、あるいは指の先で、自分にもかつて掃いて捨てるほどあった若さそのもののような髪や肌にほんのすこし触れるだけで、ただそれだけで、日々天にも昇るような気持ちを味わっているのかもしれない。
それは、誰にもわからない。あるいは、彼自身にもわからないのかもしれない。
考えてみれば、誰しも、いま、ここでこうしている、あるいは誰かと出会い一緒になるという必然性が、どれほどあるというのだろうか。
過去の出来事のひとつひとつを思い返してみても、かつて見ず知らずの赤の他人だった誰かといまここでこうしているということは、まったく不思議としかいいようがない。あるいはもう、なにがなんだか意味がわからない。
このような感覚は、おそらく運命論なんかと親和性が高いだろう。すこし前の私であれば、たぶん”運命”としか表現しなかったし、その表現になんの疑問もなかっただろうと思う。
しかし、私は最近、運命というよりももっと暴力的な何か、たとえば神的な何か、そのような存在に恣意的に翻弄されることが人の一生の本質なのではないだろうかという気がしている。
生きていく上で、自分のコントロールできることは、実は想像以上に少ないのかもしれない。
加藤茶にしたところで、彼も彼で、何がなんだかよくわからないんだけれども、気づいたらそのようになっていただけで、そんな、みんなにいろいろ言われても、だってどうしようもなかったんだからしょうがないだろう、むしろなんでこうなってんのかおれのほうが聞きたいよとしか言えないのかもしれない。
生まれ出るべきかどうかすら、選ぶこともできずに放り出されたこの世である。生まれてから死ぬまで、小説のような起承転結があるはずもなく、なにがなんだかわけがわからないままに一日一日と押し流されていくんだろうなと思う。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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