結婚式の終わりと、別の人生の始まり

  2017/08/22

テーブルの上に樋口の結婚式の招待状が転がっている。開いてみる。2014年5月17日(土曜日)、挙式は午後3時00分から、披露宴は午後3時45分からだと書いてある。

一昨日のことである。それはもう過ぎ去った時間なので、もはや何の意味も持っていない。これはもう、招待状というか、単なる紙切れになってしまっている。

人生には、時々、滅多にはないが、音を立てるように、動いたことが、変化したことが実感されることがある。アナログ時計の秒針の動きではなくデジタル時計の秒の動きのような、坂道ではなく階段を一段昇ったような、そういう、明らかな変化。

結婚式の前日まで、いや、ほんの1時間前まで、時間の流れが妙に鈍重に感じられていた。時の流れが渋滞を起こしているような。それが、結婚式が終わった途端、またさらさらと流れ出して、一気に加速して、このまま墓場まで突っ走っていくような感じさえある。

たぶん、自分が考えている以上に、樋口の結婚式のことを意識していたからだろうと思う。

ところで、ぼくはスピーチを頼まれていた。挙式のあとの披露宴で、ぼくの名前が呼ばれると、出ていって、マイクの前に立った。「師寿くん、久美子さん、並びにご両家の皆様、本日は誠におめでとうございます。ただいまご紹介にあずかりました、新郎友人の、新宅と申します。」と挨拶した。すでにビールとワインを数杯飲んでいたせいだろう、不思議とそれほど緊張はしていなかった。

それから、「先ほどの挙式を拝見して、思うところは多々ありましたが、作家のはしくれとして推敲を重ねた原稿を用意して参りましたので、それを読み上げる形でスピーチをさせていただきたいと思います」と断って、下記の文章を読みあげた。

まず、本来であれば、親族の方々もいらっしゃいますので、新郎のことを、かずとし君と呼ばなければならないところですが、日頃はもっぱら樋口と呼んでいるため、勝手ながら樋口くんということで話をさせていただくことを、お許しください。

私と樋口くんとは、福岡にある大学に入学して間もないころに知り合い、10年以上の付き合いになります。私にとっては、唯一胸を張って親友と呼べる存在です。

樋口くんに出会ったころの私は、広島の、片田舎から出てきたばかりの坊主頭で、みんなに、ハゲくんというあだ名で呼ばれておりました。一方の樋口くんは、どこで身に付けたのか小洒落ていて、いまとそれほど変わらなかったのではないかと思います。

同じ芸術学部でしたので、お互いに顔ぐらいは知っていましたが、それ以上ではありませんでした。

親交を深めることになったきっかけは、ある日の大学の帰り道です。夕暮れでした。樋口くんが、大学の正面にある画材屋の前に、ひとり、所在なげに腰かけていたのです。私に気づいた樋口くんは、とたんに顔を明るくして立ち上がり、「ハゲくん家に行っていい?」と、声をかけてきました。

むろん、ろくに話したこともないので、初めてのことです。しかし、私は、大学デビューとばかりにテンションの高い日々を送っておりましたので、何も考えずに快諾いたしました。

私の家に着くと、樋口くんが見たいというので、スケッチブックをみせました。すると、「おれの絵とそっくりだ。早く見せないと、おれがハゲくんの作風をパクったと思われるから、早いところ見せたい」と言いました。後日、樋口くんの家に行き、スケッチブックを見せてもらいました。その絵は、誰がどう見ても、まったくと言っていいほど、似ていませんでした。私は、「考え方が似ているかもしれない」と、わかるようなわからないような返答しかできませんでした。

あとで聞いたところによると、初めての一人暮らしで、とにかく寂しかったから、絵が似ているという口実で、自分の家に呼んで、仲良くなろうという作戦だったということです。

さすがに10年も経つと、セピア色を帯び始めてはいますが、今でも愛おしい笑い話です。

何はともあれ、すべてはその日から始まりました。こと大学時代は、何をやるにも一緒という感じで、さらには大学を卒業すると、二人連れ立って単車にまたがり、福岡からはるばる上京して、同じマンションの部屋違いに住んだりもしました。当然、その中でお互いに幾多の紆余曲折がありましたが、不思議と関係は途切れず、腐らず、相変わらずの仲で、今日に至っています。

さて、結婚式のスピーチの作法書によると、まずお祝いの言葉、そして自己紹介、印象深いエピソードの紹介ときて、次に、新郎新婦への激励を述べると書かれておりました。しかし、激励というと、どうも形式ばって、他人行儀な気がいたします。そこで、親友である樋口くんが結婚するにあたっての、私のごく個人的な感慨を述べたいと思います。

私は、決して誇張でもなんでもなく、こう思っています。私が、友情のなんたるか、お酒のなんたるか、恋愛のなんたるか、将来のなんたるか、この世界のなんたるか、それらすべてを、彼によって教わったのだと思っています。自己中心的で、矛盾の塊のような下衆な私を、見捨てることもなく、呆れることもなく、無限に手を差し伸べてくれました。樋口くんは、そういう人間です。あるいは、久美子さんをうらやましく思うくらい、すばらしい人間です。

とはいえ、結婚というものは甘い夢ばかりではなく、非情な現実だとも思いますので、最後に、いくつか古今東西の格言を送って、締めくくりたいと思います。
「結婚は悲しみを半分に、喜びを二倍に、そして生活費を四倍にする。」イギリスのことわざです。
「結婚生活で一番大切なのは忍耐である。」ロシアの作家、チェーホフの言葉です。
「夫婦生活は長い会話である。」ドイツの哲学者、ニーチェの言葉です。
「遠くの親類より、近くの樋口」日本の美術家、私の作った言葉です。

以上、はなはだ長ったらしい挨拶ではございましたが、お祝いの言葉とさせて頂きます。樋口くん、久美子さん、ご結婚、本当におめでとうございます。

よくよく考えたら、全然”二人”のことを祝っていないということにスピーチの直前になって思い至ったが、まあ実際のところ、ぼくは人の幸福を祝うような心を持ち合わせていないので、しょうがないかということでそのまま読み上げた。

それはともかく、すでに樋口は今年の元旦に入籍しているのだから、そもそもがしっかり夫婦になっていたのだが、ぼくにはその実感が希薄だった。しかし、この結婚式を経てようやく、確かに彼は結婚し、既婚者になったのだなあという実感が伴うようになった。

人生には卒業式や入社式とさまざまあるが、それこそが式というものの本質なのだろう。連綿と続いて曖昧模糊とした時間の流れを意識的に区切る。境界線を、引く。

そう、境界線が引かれたのだと思う。それはぼくにとってあまりにもはっきりとした境界線で、国境線なんかよりもよほどはっきりとした、あるいは唇の赤と肌の色の境界線よりもはっきりとした、断絶とも呼べるような境界線。

あちらがあって、こちらがある。境界線が引かれたから、もうあちらには行けないのだ。あちらのことは知っているし、覚えてはいるが、決してもうあちらには行けないので、とにかくはこれからはもう、どうにかこうにかこちらでやっていくしかないのだ、という。

当たり前といえば当たり前なのだが、それでも、すこしだけ、あちらをうらめしく思う、こちら側のぼくである。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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