わたしの鍋、お鍋

最終更新: 2015/07/03

毎晩、居酒屋に行きたい。それがわたしの夢である。

しかしそのような暮らしができるほどには稼いでいないので、ほとんどの日々は我慢をして、しおらしく帰路に着かねばならない。

だが、無理をしてでも行きたくなるのが居酒屋の魔力である。それはもう、恐ろしいまでの吸引力。別に、これといった持論も哲学もないのだが、とにかくは、是が非でも、死んでもいいから、居酒屋に行きたいのだ。

そうして、まずはビール。生のジョッキではない。瓶ビールである。いつもキリンかアサヒかなんてことを尋ねられるが、そんなもの、どっちだっていい。味なんてわかんないんだから、第三種でも雑種でもなんでもいい。ビールっぽけりゃそれでいいのだ。

ビールを呑むコップは、一息で飲み切れるような、ごく小さめがいい。それを手酌で、注いでは呑み、注いでは呑みする。ジョッキのプハァー、ではなく、ふう、という溜息にも似た感じ。これがいい。

それから、そうだな、焼き鳥を三本くらい、もらおうか。タレでも塩でもなんでもいい。こだわりなんてない。そもそもこだわりがあるなら居酒屋なんかに行くんじゃないと言いたい。

焼き鳥を待つ間に、お通しをつまみつつ、ビールを進める。今日のお通しは茹でたブロッコリーにタルタル風のソースがかかっているもの。それほどうまくもないが、悪くはない。そもそもお通しとはそういうものなのだ。

というようなめくるめく欲望を抑圧して、一路ダイエーへ向かう。フロイトの心理学でいうところの防衛機制・合理化である。有名な例としては、イソップ童話のすっぱい葡萄がある。

『キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。』(wikipediaより)

いや、これは「置き換え」である。

『置き換え(displacement)とは、欲求を本来のものとは別の対象に置き換えることで充足すること。』(wikipediaより)

居酒屋はすばらしい。それはわかっているのだが、居酒屋に行きたい欲求をダイエーに「置き換え」て、代替的な充足をはかったわけである。って、そんなややこしいことはどうでもいい。単にお金がないから居酒屋ではなくダイエーで我慢した、それだけのことである。

たまたま、家の冷蔵庫には、野菜やら鶏肉やらがけっこうある。それで、鍋にすることにした。しかし、一人用の適当な鍋が無い。少しでも気分よく食べたいと思い、小さな、赤いホーローの鍋(598円)を買った。

鍋の定番の土鍋を買ってもよかったのが、そのホーローの鍋は値段の割に小洒落ていて、飲み会などの際にちょっとパエリアなんかを作って鍋のまま出せば、かわいいとかなんとか言われて、きっとぼくの評価が上がるに違いないだろうという打算でもって選んだのであった。

それから白ワイン(398円)を買って、おとなしく帰路についた。居酒屋に向かうのとは違って、まったく心ははずまないし、ちっとも楽しい気分ではなかった。

家に帰って鍋を作った。白菜、春菊、小松菜、しめじ、鶏肉、別段の工夫もない寄せ鍋である。

それを、買ったばかりの赤いホーロー鍋で煮込んだ。

煮えるまでの間に、テーブルに卓上コンロを設置した。だいたい煮えたころ、ガスコンロから卓上コンロに移した。

16cmと、ごく小さな鍋なので、卓上コンロの四本の脚の上では、実に不安定であった。しかしまあ、大丈夫だろうと思い席についた。

白ワインをグラスについで、さあ食べようと、鍋にレンゲを伸ばした。瞬間、ぐらりと鍋が傾いて、お汁がコンロ上にだくだくと流れ出た。

アッ、ともなんとも、声は出なかった。こぼれた事実を、ただ静かに、その眼に映していただけだった。

まだ一口も食べていなかった。かろうじて具は流れ出ていないが、お汁の流出量は結構なものであった。

しばらく思考および動作が停止していたが、お汁がひとしきり流出し切ったころ、ぼくはようやく腰を上げた。大量のキッチンタオルを使って、汁気をぬぐっては捨て、ぬぐっては捨てした。

こんなことなら居酒屋に行けばよかったなと思った。

今年の冬は、とっても寒いから、ほっこりお鍋であったまろ。

31才、独身、親友の結婚式でのスピーチを考えている、男やもめの夜である。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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