はかどらない日曜日とイスラームではなくキリスト
2017/08/22
ぼやぼや雨降りの土曜とは打ってかわって、抜けるような青空という月並みな表現がぴたりはまる日曜日。
朝ごはんにチャーハンを作って食べてランニング。まだ桜も一応は見頃で、というか単に天気の良さからだろう、多摩川の土手ではバーベキューなどに興じる花見客や、たい焼きなんかの露店が出ていた。
いいなー楽しそうだなーと思いつつも無視してわたしはひとり季節とも太陽ともさよならして制作に没頭!と意気込んだものの、のべ2時間あまりで陥落。酒に溺れる。
こんなことなら花見にでも行けばよかったではないか、たとえひとりでも。
そんな風流な性格でもないので、ひとり薄暗い部屋で酒に溺れながら、「イスラームの常識がわかる小事典/鈴木 紘司著/PHP新書」とかいう本を読む。
ほんとうはゴルゴタの丘についてだったのだが、それはまた今週末などまったりした夜に、もぞもぞと調べながらお送りしたい。
と、ここまで書いたところで気持ち折れてしまった昨日の月曜日。そしてまた、死ぬほどげんなりすることがあったので、もはや続きなど書く気にもならなかった。なのでもうとにかく寝た。
3時起床、少しばかり精神的ダメージ回復、そしてランニングからの制作小一時間、ができたので、なんとか今日は気持ちを切り替えて、さてイスラーム。
まずは前回の補足から。
イエスの親はエホバ(ヤハウェ)と書いたが、正確にはエホバは先祖であって直接の親ではない。
新訳聖書の冒頭は、まずその系図の説明からはじまる。それがまた長い。なんと延々14代の羅列。ほんとうになんのひねりもない羅列。
阿刀田高氏の本によると、まずは「アイヤー、ヨッ!」と覚えてほしいとのことで、これは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、という系図の語呂合わせである(って、なんでユダが"ヨ"なんだと今思ったが、今は手元にその本がないので確認不可)。でまあ、新訳聖書の始まりはそのように始まる。すなわち、
「アブラハムはイサクの父となり、イサクはヤコブの父となり、ヤコブはユダとその兄弟たちの父となり、ユダはタマルによってペレツとゼラの父となり、ペレツはヘツロンの父となり、ヘツロンはラムの父となり、ラムはアミナダブの父となり、アミナダブはナフションの父となり、ナフションはサルモンの父となり、サルモンはラハブによってボアズの父となり、ボアズはルツによってオベドの父となり、オベドはエッサイの父となり、エッサイはダビデ王の父となり、ダビデはウリヤの妻であった女によってソロモンの父となり、ソロモンはレハブアムの父となり、レハブアムはアビヤの父となり、アビヤはアサの父となり、アサはヨシャファトの父となり、ヨシャファトはヨラムの父となり、ヨラムはウジヤの父となり、ウジヤはヨタムの父となり、ヨタムはアハズの父となり、アハズはヒゼキヤの父となり、ヒゼキヤはマナセの父となり、マナセはアモンの父となり、アモンはヨシヤの父となり、ヨシヤは、バビロンへの流刑のころにエコニヤとその兄弟たちの父となった。バビロンへの流刑ののち、エコニヤはシャルティエルの父となり、シャルティエルはゼルバベルの父となり、ゼルバベルはアビウドの父となり、アビウドはエリアキムの父となり、エリアキムはアゾルの父となり、アゾルはサドクの父となり、サドクはアキムの父となり、アキムはエリウドの父となり、エリウドはエレアザルの父となり、エレアザルはマタンの父となり、マタンはヤコブの父となり、ヤコブはマリアの夫ヨセフの父となった。このマリアからキリストと呼ばれるイエスが生まれた。」
長い。とにかく長い。全部合わせると、アブラハムからダビデまで延々しつこく14代の記述。これが小説の公募とかなら、一発で落選してしまうのではなかろうかという歯切れの悪さとまどろっこしさである。しかもこれだけ延々と家系図を記述しているんだから、これはつまるところ「なんと立派な家系だろうか!やっぱ神様は違う!」というような意図だろうと思ってしまうのだが、こんだけ並べたくせに最後の「〜このマリアからキリストと呼ばれるイエスが生まれた。」というところに注目してほしい。
え? そりゃまあ普通にマリアがイエスを産んだんでしょう? そんくらいは誰でも知っているのでは? ってそれはそうなのだが、これまたご存じの通りマリアは処女懐胎なのである。つまり、これらの血筋とはなんの関係もないのである。
ほんとう、よくよく考えるとなんじゃそりゃ、って感じではないだろうか。
なんでそうなのか、って、おそらくもっともらしい理由がありそうなのだが、いかんせん勉強不足でその理由はわからない。わかったらまたお教えしたいと思ふ、ふ、ふ。
ちなみにこのキリスト生誕はベツレヘムでのことである。この時、ベツレヘムの東のほうにいたとある占星術の博士三人が、ベツレヘムの星(クリスマスの星)を見た。ベツレヘムの星は通常はその場所からは見えない星だった。その星から、だれか偉大な方がお生まれになったと悟った三博士は、贈り物を持ってベツレヘムの星をめざして歩いた。
そしてちょうどベツレヘムの星の下に来たときに、誕生したイエスキリストに出会う。三賢者はこれは神の子に違いないと贈り物(没薬、乳香、黄金)を捧げる。
没薬と乳香は、古くから焚かれていたお香で、鎮痛、鎮静効果があるらしい。
で、この贈り物を持ってきたというのが、いわゆるクリスマスの始まりだという説もあったりする、ようである。まあ諸説あるというやつですね。
って、前回の補足説明だけでやたら長くなってしまった。ので、今日はもうあやふやにしておしマイケル。ちなみに今日の画像は説明するまでもなく満員電車が閉まるところ。ほんとう、ベトナムだったかインドだったかよく知らんけど、あの辺の電車やバスの屋根にまで乗ったりするムチャクチャな乗り方とたいして変わらんではないかと思う。ただひとつ違うのは、ドアがあること、そしてそのドアが完全にしっかり閉まること。
そう考えると、先進国の条件とは、ドアが閉まること、密閉できること、そういうことなのかもしれない。三段論法的に適当に書いたけど、どんなに立派な建物でも、ドアが閉まらないことには始まらない。もしもドアが閉まらないとしたら、それはただの"ひさし"に過ぎないだろう。いや、GLAYのヒサシとは関係なくて。うん、君も文明国の一員なら、まずは閉じよう。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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