あてどなき脱力

  2015/07/03

あいかわらずの毎日と呼んで差し支えない日々となった。日々はルーチンに溶けて、可もなく不可もない。

別に怠惰になったわけでも、人生を諦めたわけでもない。努力と呼べそうな行為も、ちゃんと、続けている。

しかし、加速度的に実感が崩れてゆく。やってもやっても、何も得られず報われないような、徒労感。広島に帰ってきて2ヶ月ばかりではあるが、完全に頭が腐ってしまったような気がする。知的な会話が成立する相手が居ないせいかもしれない。漠然とした、渇望、飢餓感。

起きる。絵を書く。飯を食う。走る。仕事をする。飯を食う。仕事をする。帰宅する。酒を飲む。眠る。

そうやって、人生が過ぎてゆく。悪くないと言えば悪くないが、呆れるほどに、何もない、と思う。

通勤電車。耳にはイヤホンが差し込まれている。どこの誰とも知らない外人の英会話が延々と続く。本を読むが、一応、広げてはいるが、頭には入らない。ほどなく本を閉じる。窓外を見やる。

美しいというわけでも、汚いというわけでもない。ただ、風景。風景という単語でしかない、風景。たとえそれが東京でも、なんら違わないと思う。どこだっていいし、どうだっていい。そう思う。いや、そう思い込もうとしているだけかもしれない。

なんだったっけな。何がどうなってこうなってんだろう。あの子はいまごろ何をしているのだろう。あれはどうなったんだろう。なんだろうな。あの時のぼくは、あの頃のあの子は、ああなって、こうなって、そうなって、どうなって。ほんとう、なんだろうな。なんなんだろうな。

具体的なのか抽象的なのかも定かではないあやふやな思考が、茫茫と流れる。

幸せかと聞かれれば幸せだと答えはする。幸せだと答えなければバチが当たりそうな現在ではある。しかし、幸せだと答えた瞬間、ぼく自身が全力でそれを否定する。それは嘘だろうと。

理性では、幸せだということは十二分にわかっている。幸せっぽい要素を書き連ねて総括すれば、十中八九、幸せだという結論が導かれる。しかし、人は理性で幸福を感じるのではない。ただ、感覚である。

肌寒い、というような、なんとはない感覚。機械ではおよそ測れない、皮膚感覚とでも言うべきもの。

文芸評論家の小林秀雄がこんなことを言っている。

「人間に何かが足りないから悲劇は起こるのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起るのだ。」

安っぽい言葉といえなくもない。人は笑うから悲しいのだとか、人は救われたいから欺くのだとか、逆説めいたことを言えば他人は勝手にうがった解釈をして、それっぽく受け取るものだから。

でもまあ、素直に字義通りに受け取って考えれば、ぼくにあり過ぎるのはおそらく、偏った、針の先ほどに偏った情熱である。

冷めているなら、もっと徹底的に、すべてに冷めていればよかったのだ。そして、すべてに対して無関心で、人生なんてくだらねーぜとスルメでも、はたまた独りでニンニクでもかじっていればよかったのだ。しかし情熱が、少なからずある情熱が、誰かしら人間を欲する。承認欲求である。その欲求が、ニンニクなんか食べたら口臭が、なんてことを思わせるので、自粛することになる。って、そんな自己分析はどうでもよい。なんだかんだ人に好かれたいだけである。いや、自分が好ましいと思う相手に、好かれたいだけである。って、要するに、ふつうのひとでしかない。あくまでも普通の人ではなく"ふつうのひと"ということが重要である。それはつまり、普通の人ではなく"ふつうのひと"という表現で

なくてはならないと主張する程度には、普通の人ではなく"ふつうのひと"ということなのである。って、くどい詭弁。

日々、わたしの人生、いま現在。幸せではないにしろ、楽しくなくはない。酒を飲めばゲラゲラと笑ってもいるし、そもそも根アカなのでニコニコして過ごしてはいる。人にも、なんでそんなに笑顔なのかと言われたりもする。

しかし、笑ってはいても、両耳から脳みそが流れ出しているのではないかという感じで、無意味だということを強く感じる。

酒をあおってげらげらげらとまきちらす哄笑、両耳からどろどろと流れ出る脳みそ。ああ、楽しい、楽しい、楽しいはず、グビ、グビ、グビ、これは、こういうことは、楽しいはず、楽しくないはずがない、ゲラ、ゲラ、ゲラ、現に、ぼくは笑っていて、ちゃんと笑っていて、作り笑いでも愛想笑いでもなく、かなり素直に笑っていて、そして、笑うって、確か世界共通で、どんな未開の土地の人も生まれながらに持っている楽しいとかうれしいときの表情だし、だから、ぼくは間違いなく楽しいと、楽しいんだと、思う。いや、楽しいと考えている。つまり、笑顔で楽しく、やっている。笑顔で楽しく、歳を重ねている。ぼくは元気で、やっている。ぼくの毎日は幸せで楽しいものだと、考えている。笑うことも楽しいことも、そして幸福も、考えるような性質のものじゃないということ以外は、すべて、うまくいっている。なにも、問題はない。問題ない。楽しく元気で、やっている。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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