にんげんの生活
2015/07/03
海辺をランニングしていると——と言ってもそれは砂浜のようないい感じのところではなく、単なる防波堤的な遊歩道であるのだが——50mほど先で、おっさんがこっちに向かって歩いていた。
おっさんの歩く速度+ぼくが走る速度が相まって、二人の距離はぐんぐん縮まる。と、おっさんの顔が無いことに気づく。しかしお化けとかいうわけではない。おっさんは後ろ向きで歩いているのであった。
数歩ほどの距離になったところで、ぼくの足音に気づいたおっさんはハッという感じで振り向いた。しかしそれはぼくとは逆の方向で、そちらには人影はおろか、そもそも海しかないのであった。その動きはひどく間が抜けていて、ぼくはおっさんの逆側を走り抜けながら吹き出した。
後ろ向き歩きは、おそらくはおっさんがNHKか何かで仕入れてきた健康法だろうと思われる。しかし、そのような間抜けな醜態をさらすくらいなら、いっそガンにでもなって床に伏せたほうがマシというものではないか。人間には尊厳というものがあるし、尊厳の有無はもっとも重要である。
それはともかく、その後ろ向き歩きで、ちびまる子ちゃんの遠足の巻を思い出した。遠足は登山で、山に着くなり子供たちは「山だー山だー」と叫ぶので、こんなとき「山田」という苗字の子は必ずからかわれる、というような一コマを妙によく覚えている。それから、登山の途中から、疲れてきた子供たちの中に突如として後ろ向きで歩いた方が楽だという子が現れ、それがどんどん伝染していき、みんな後ろ向きで登るというような話である。
言ってみれば、毒にも薬にもならない、まったくもって他愛のない話である。
閑話休題。
ぼくがランニングにでかける時間は、どうやら小学生たちの登校時間と重なっている。走り抜ける家々、一軒家やマンションから、子供や、その親が、ぱらぱらと間断なく表に現れる。親は子供の手を引いたり、子供に手をふったり、何かを手渡したり、見送ったりしている。子供の大半は親に比べるとあまりにも無目的で無防備な様子で、その行為の意味すら知らないのではないかという感じで、親に手を引かれたり、手を振り返したりしている。それで、すれ違う瞬間に、「あ、忘れものした!」というような、なまなまし過ぎて腐敗臭さえ漂ってきそうな、親近者以外からは秘匿されるべき生活そのもののような声を聞いたりする。
そんなとき、なんだかぞっとする。ぞっとする、という表現が正しいのかどうかいまいち確信できないが、ああ、生活!にんげんの、生活!と思う。
そんな中、おそらくはそばにいる子供の祖父と思われる白髪の初老男性が、一眼レフを片手に子供にはりつき、中腰で歩きながらシャッターを切りまくっていた。
そうしたい気持ちはわからなくもないが、いや、本当はそれほどわからないが、一般的にはよくある行為には違いない。ただ、そんな写真を撮ってどうするのだろうかと、なんとはなしに疑問を覚えた。いつ見るというのだろう。帰ってすぐか、一年や二年経ってからか、それとも、当人が思春期に、はたまた就職とか結婚とか、なんらかの人生の節目に、ある日の出来事を見返すのかもしれないが、とにかくは、それはなんのためでなんの意味があるのだろうかと思った。その子供がある程度の感慨を持って見返せるころ、撮影した当人は鬼籍に入っていて……と、こねくり回そうかと思ったがやめた。今日は思考が鈍重でうまくまとまらない、という現実逃避でまた明日とする。終わり。
◎
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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