切り取られる平日の、白昼の

最終更新: 2017/08/22

びゅうびゅうびゅう。とんでもなく毎日が過ぎていく。日々というものは、こんなにも暴力的なものだったっけ、とか思う。

平日の昼間、たとえば11時ごろ、ひとりベッドに横たわってぼうっとしていると、なんとはなしに思考が過去をたぐり始める。

そら高く飛行機が飛ぶ音が聞こえる。近くの小学校から、子供たちの歓声と、ときにチャイムの音が響く。だけど、部屋の中は真空状態かのように、しんっと、耳が痛いくらい静かだ。
 
小学校か中学校のころ、病気で休んだときの感覚に似ている。まあ、その時分から大半は仮病だったのだが。

ぼくが通っていた小学校は、家から徒歩3分くらいのところにあった。だから、学校のいろんな音が、十分に届くのである。

本来であれば、ぼくはその音の元に居るはずだった。だけど、そこには居なくて、ここに居る。

そんなときの日差しは、たいていやけに強くてまっすぐで、妙に透き通っている。

たった3分の距離が、遠く、遠く感じられる。もしも今日、学校に行っていたらどうだったろうと、想像してみたりする。

ほどなく給食の時間になる。ぼくの分のパンと牛乳があまる。誰がそれを食べて、飲むんだろう、なんて。じゃんけんをして、誰かが食べる。誰かが飲む。

ぼくのいない教室は、いつもと何ら変わらず、滞りなく進む。ぼくの代わりに誰かがそうじ当番をして、帰りの会があって、一日が終わる。みんな帰る。

たぶん、その想像は、呆れるほどに現実そのままだと思う。ディティールまで、想像通り。

頭の中の世界が現実そのままなら、実際にぼくがそこに居る意味なんて、無いなあと思う。

そんなことをとりとめもなく考えていると、ぼんやりとしてくる。時の流れが遅いような、早いような、おかしな時間。いつもとは違う、特別な時間が過ぎてゆく。

しかし、夕方にもなればふつうの時間に戻っている。もしも今日、学校に行っていたとしても、ぼくは帰ってきていて、同じようにここに居るのだろうから。

そうして、もう具合云々の演技はいらないので、いつも通りみんなで食卓を囲んで、夜ご飯を食べる。ちょっと、お母さんがお父さんに、今日ぼくが休んだことを話したりする。父は「ほうかあ」と言って、ぼくはもう良くなったとかなんとか言って、適当に笑ってごまかす。

お風呂に入って、それからまた布団に入れば、明日がすぐそこまでやって来ている。

今朝の始まりからのことを、ひとつひとつなぞってみる。今日という一日は、いったいなんだったんだろうなあと思う。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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