つまようじの発明

最終更新: 2016/04/08

人の発する音がやたらと気になる今日このごろ。

たとえば定食屋。隣席のおっさんの咀嚼音。くっちゃくっちゃくっちゃくっちゃ。おまけに食後には、つまようじでおおっぴらに歯クソをほじくっている。ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃちゅうちゅうちゅう。

寒気がする。なんなんだこいつは死ねと、反射的に思う。

反射というのはいつでも鋭い。熱した鍋に手が触れてしまった時に引っ込めるときの俊敏さを考えてみればすぐにわかる。だから、その死ねという思いは、そうとうに本気の、アイスピックばりに尖った死ねである。

死ね。

むろん、おっさんは死なない。相変わらずぴちゃぴちゃちゅうちゅうやっている。おお寒気がする。地獄に落ちろ。

いや、さすがに地獄に行けとまでは言わないが、少なくとも家には帰れ。そして二度と人前で飯を食うな、くらいは思う。

まあ、たいていはその前に自分が帰る。どうしてあんな輩が存在するんだろうかと考えながら、その場を去る。

おっさんになったら、いろいろと諦めて、恥も外聞もなくなって、ああなってしまうものなのだろうか。ある種のおばちゃんのように。

だって、少なくとも彼らとて、若い頃にそんな振る舞いはしなかったはずだ。もちろん、歯の隙間がそれほどなく、めったに食べ物が挟まらなかったという物理的な問題もあるだろう。

しかしそれでも、たまには挟まったに違いなく、だからといって、人前でぴちゃぴちゃちゅうちゅうやっていたわけではあるまい。むしろやっていたら、もはや筋金入りなんだと表彰してやりたい。

とにかくは、彼らはある時を境に、人前で億面もなくぴちゃぴちゃちゅうちゅうやり始めたということだ。

それはいつか。

たぶん、こんな寒い日だった。歯にものが詰まった。その時、人は突然に、恥じらい多き若者と、恥もクソもないおっさんの分かれ道に立たされる。

歯にものが詰まったのは、もう何回目だろう。幼少の頃から考えれば、もう何百回、いや、何千回と経験していることだ。つまりは慣れっこ。いやもっと、歯クソ名人と言っても差し支えないかもしれない。

いつもなら、ちゃんとお手洗いにでも立って、うがいや何かいろいろして、とにかくは隠れて歯クソを取り除いていた。しかし、そのちょっとの手間が、いやに億劫に感じられる。そういう年齢が、誰しもに訪れる。

お手洗いに行ってこようか、だけど寒そうだなあ、――実際、個人でやっている定食屋なんかのお手洗いはたいてい恐ろしく寒い――でも歯クソが気持ちわるいなあとかなんとか逡巡しながら、ふと目を落とすと、そこには爪楊枝が置いてある。

今日の今日まで、自分には全然無縁だった爪楊枝。あるいは、たこ焼きを食べるときくらいにしか使ったことがない爪楊枝。弁当の割り箸袋に一緒に入ってはいるもののゴミと大差なかった、爪楊枝。

ああそうだ、こういう時に使うんだなと気づく。それはほとんど発明にも似たひらめきであった。

彼は生まれて初めて、本来の爪楊枝としての爪楊枝に手を伸ばす。一本取る。それで歯クソを取ろうとすると、今までの持ち方とは自ずから異なってくる。

わかる人にはわかるだろうが、細かい工作における木工用ボンドの塗布の際に使う爪楊枝の持ち方に近い。そのようにして、そっと、歯クソの場所に持っていく。ぐいと差し込み、てこの原理よろしくほじくり出す。しかし、うまく取れない。

なぜなら、彼は歯クソ名人ではあるが、歯クソ取り名人ではないからだ。むしろ、歯クソ取りに関しては初心者中の初心者、むしろ初体験である。

四苦八苦して、ようやくで歯クソが取れる。生まれて初めての爪楊枝による歯クソ取り体験である。見ると、爪楊枝の先がほんのりと赤い。下手にいじくり回したこともあるが、加齢によって歯茎が弱っており出血してしまったのである。

歯クソが取れたはいいが、口の中で若干血の味がする。なんだか、というか、ものすごく複雑な気分である。

彼は酒のようにお冷をぐいとあおり、席を立つ。お勘定を済ませ、外に出る。とても寒い。痛いほど、風が冷たい。

そう、こんな寒い日が、彼がおっさんとしての歩みを始めた最初の一日だったのだ。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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