ただ、時間だけが正確に流れていくという話

  2015/07/03

近頃は泥酔することが少なくなったので、眠る前にいろいろと考える空白の時間がある。

昨夜も空白があった。というのは間違いで、一昨日のことである。21時半過ぎに帰宅し、キリンビールの125ml缶と日本酒2合ほどの晩酌をして、シャワーを浴びての23時半のベッドの中。

生活も絵も仕事も、ごくごく真面目にやっている、やれている、にも関わらず、これといった達成感はない。そもそものやる気がない。努力という美徳に対する信仰心、あるいは一人相撲でしかない義務感か、単なる習慣のようなもので、ただひたすらに淡々とこなしているだけである。

何がどうしてどのように満ち足りないのだろうかと考える。とにかくは、あまりにも日々が静か過ぎやしないだろうかと感じ入る。

薄く開けた窓から、遠く車の走る音が響いてくる。思考は自然と過去に向かう。子供のころを思い出す。夏休み、山登り、川遊び、海水浴、花火のことなんかを思い出す。クリスマス、お正月、その時々の匂いや人々も思い出す。幸せだったなと思う。

しかし、いい加減、そのように思うことの虚しさを知っているし解っているので、ちくしょう、くそったれ、馬鹿馬鹿しい。おれはなんてくだらないことを考えているんだろうかと辟易する。だけどやっぱり、あまりにも幸せだったような気がしてしまう。

ぼくは、ぼくは、ぼくは。ぼくはいったいなんなのだろう。

そういえば、小学生のころ、ぼくはたぶん今でいうADHDか何か、はっきりした病名が付けられそうな障害があったような気がする。いま思い出してみるに、一番の問題行動だったなあと我ながら思うのは、休憩時間によくやった、「大元(だいげん)」という遊びでの行動である。

広島だけのローカルなゲームのような気がするので、ルールを簡単に説明することにしたい。グラウンドに、田んぼの”田”を、運動靴のカドで土を削って線を引く。田のなかの4つのマスに、一人ずつ入る。各マスには位があって、上から順に、大元、中元、小元、あとひとつ呼び名があったはずなのだが、思い出すことができない。

とにかくは4人で、サッカーのリフティングの要領で、ボールを蹴って回す。ミスをして落とすと、一つ下の位に下がる。最下位まできて、さらにもう一度ミスをすると、大元の外に押し出され、補欠になる。だいたいいつも7、8人くらいは集まっていたので、補欠は常時3、4人くらいは居た。

その遊びの時のことである。ぼくは最下位のマスでさらにミスをして補欠になると、よく悔しさのあまりサッカーボールを奪って脱走した。そして、グラウンドの隅かどこかに隠れた。1クラスにサッカーボールはひとつしかなかったので、ぼくが持って逃げたために、みんなが大元をすることはできなくなる。ぼくは、植え込みの茂みの陰なんかに隠れ、ボールを抱きかかえて息を潜め、休憩時間が終わるチャイムが鳴るのを、ひたすらに待った。

ふつうに考えて、最悪な奴である。いくら子供といえど、子供にだってちゃんと社会があり、秩序があるのだ。いやもっと、小学生になり立てくらいならばともかく、もうけっこうわけがわかっている、小学5年とか6年の時分である。それはもう、即座に村八分、仲間はずれにされてしかるべき暴挙である。

しかし、ぼくはそれをしょっちゅうやっていた。休憩時間が終わると平然と教室に戻っていたが、いま考えてみれば、素晴らしく図太い神経というか、恐ろしいほどの無神経さである。

みんなはそんなぼくの行動を、「また新宅か」と言って呆れていたに違いないが、不思議ともう大元の仲間に入れてやらないというようなことはなかった。いや、本当はあったのかもしれないが(むしろ、ないわけがない)、少なくとも、常軌を逸したご都合主義で出来ているぼくの記憶にはない。

と、ここまできて唐突に、例によってコラムに接続したい。むしろ、これのために書き始めたのだが、ひとりで盛り上がってしまった。はい、東京新聞のコラム「筆洗」より、下記転載。

 「どんなものでも、たべつくす、鳥も、獣も、木も草も。鉄も、巌(いわお)も、かみくだき、勇士を殺し、町をほろぼし、高い山さえ、ちりとなす」。いったいこれは、何か。英作家トールキンの『ホビットの冒険』の中に出てくる、有名な「なぞなぞ」

▼答えは「時間」。なるほど時の流れという「怪物」にはどうやっても勝てぬ。万物はやがて朽ち果てる。十日は時の記念日

▼人類の技術進歩は時間という怪物との闘いの成果か。同じ時間内にどれだけ移動できるか、製造できるか、情報を伝えられるか、エネルギーを生産できるか。技術で効率を高めることで怪物の目をかいくぐることができる

▼米映画「イージー・ライダー」(一九六九年)。主人公がバイクで旅に出る直前、腕時計を無言で投げ捨てる場面がある。定められた時間、追い立てるような社会から解き放たれたいというメッセージだったのだろう

▼映画から四十五年経過するが社会に変化はない。むしろ生産性、時間効率という足枷(あしかせ)はより重くなっている。のんびりしていると叱られる

▼仕方があるまい。そうやって皆、生きている。それでも「時を忘れる」方法はある。ボーッとする。季節の花を見る。それぐらいのぜいたくが許されないはずはない。時間とずっと角突き合わせていては身も心も持たない。息をひとつつく。「怪物」と付き合うコツかもしれぬ。

転載元URL【 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014061002000117.html 】

転載終わり

誰でも多かれ少なかれ過去は美化されるものだろうけれど、たぶん、ぼくの場合は病的に美化されている気がする。いや、病的とかいう表現を三十路にもなっていまだに好き好んで使っている時点で、やっぱりぼくはちょっと病的なのだと思う。ああ、ぼくはきっと生まれつきの病気なのだ。病んでいるのだ。う、うふ。うふふ。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

ご支援のお願い

もし当ブログになんらかの価値を感じていただけましたら、以下のいずれかの方法でご支援いただけますと幸いです。

Amazonギフト券で支援する
→送信先 info@tomonishintaku.com

Amazonほしい物リストで支援する

PayPalで支援する(手数料の関係で300円~)

     

ブログ一覧

  • ブログ「むろん、どこにも行きたくない。」

    2007年より開始。実体験に基づいたノンフィクション的なエッセイを執筆。アクセス数も途切れず年々微増。不定期更新。

  • 英語日記ブログ「Really Diary」

    2019年より開始。もともと英語の勉強のために始めたが、今ではすっかり純粋な日記。呆れるほど普通の内容なので、新宅に興味がない人は読んで一切おもしろくない。

  • 音声ブログ「まだ、死んでない。」

    2020年より開始。ロスのホームレスとのアートプロジェクトでYouTubeに動画をアップしたところ、知人にトークが面白いと言われたことをきっかけにスタート。その後、死ぬまで毎日更新することとし、コンテンツ自体を現代アートとして継続中。

  • 読書記録

    2011年より開始。過去十年以上、幅広いジャンルの書籍を年間100冊以上読んでおり、読書家であることをアピールするために記録している。各記事は、自分のための備忘録程度の薄い内容。WEB関連の読書は合同会社シンタクのブログで記録中。

  関連記事

死ぬのはいつも他人ばかり

早朝、ドアの前にアブラゼミの死骸が転がっていた。 よけて歩いた。すると廊下にもう ...

そこここで汚れ、穢れ続ける

2013/04/05   日常

女性のわき毛すね毛などの体毛剃りカミソリで、口ヒゲは剃りたくない。 昨日に続き、 ...

奉賀!奉賀!奉賀!

3、2、1とカウントされて花火が打ち上がる。歓声が上がる。種々の国の人々がハイタ ...

にんげんの踏ん張りどころ

2013/09/06   日常

人間には踏ん張りどころというものがある。あるったらある。 言うまでもなく、ここは ...

広島をさぶらいて候

2012/11/26   エッセイ, 日常

先週の水曜日から週末まで、広島に帰っておりました。まあ、それなりに楽しく過ごさせ ...

当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。

Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.

Copyright © 2012-2024 Shintaku Tomoni. All Rights Reserved.