再・東京生活
2017/08/22
東京は雨である(今は上がっている)。
再上京して七日目。体調良好、精神状態も良好、ぼくは元気です。
しかし状況は変わった。今まで徒歩10分で通勤していたのが、電車で二回も乗り換え50分もかかるし、相変わらずの満員電車の空気は薄い。人はやたらと多いし、ごみごみとしているし、薄汚いと言えば、まあその通りだろう。
しかしそれでも、特に苦ではない。むしろ快いと思う。何がいいのかはよくわからないが、ここでこのように暮らしてゆく、ということを疑わない。少なくとも今は。
人波に押され流され会社に向かう。家に帰る。
電車のアナウンスは、次は下北沢だとか、渋谷だとか、矢継ぎ早に"都会の"駅名を口にする。そういうのが非日常ではなく、どこまでも平凡な生活の日常であることがうれしい。
こう、改めて考えてみると、あるいは、ぼくは都会に憧れているのかもしれない。都会に憧れる、単なる一田舎者であり続けているのかもしれない。
しかし現時点ですでに東京での生活経験は8年超であって、人生の1/3くらいは東京なのである。いまさら憧れも何もないだろう、とも思う。
だいたい憧れなんてものは、それを手に入れれば消え去るものではないか。
たとえば、憧れている異性がいたとしても、ひとたびセックスにでも及ぼうものなら、それはたちまち終わるものではないか。少なくとも、その後は褪色の一途ではないか。
憧れとは、容易には届かないある一定以上の距離または距離感のもとに生じる心情だろう。
しかしそれは人に対する憧れの話であって、土地に対するそれとは似て非なるものなのかもしれない。
室生犀星は「ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と詠った。地方出身者にとっての永遠のテーマでもある、ふるさとの対立項としての都会。
ふるさとから800km離れた東京の街角で、広島の一隅に思いをはせる。
路面電車の中吊りに、新築タワーマンションの広告がぶら下がっていた。「都心での極上の生活」と書いてあった。
呆れるような、嘲笑するような心持ち。もちろん中心部という意味での都心には違いないが、都心という表現は東京"都"でこそしっくりくるのだ。なんてことを思うその一方、事実、広島という一地方都市で生活している自身の境遇のやるせなさ。
NHKの夜9時のニュースは、いつも渋谷駅前のスクランブル交差点の今の様子で終わる。雨だったり、晴れだったりした。どちらにしろ、いつも人がたくさんいた。それを、広島の実家のお茶の間で見ていた。
同じ時間、つまりLIVEでありながら、どこまでも断絶されているような気がした。それはあまりにも遠く、ぼくにはなんの関係もない世界だった。そう思うと、漠然とさびしかった。
その理由を友達だなんだと並べ立てるのはたやすい。しかし、人はみな絶対に孤独なのだということもわかっている。誰と一緒に居ようがどこに居ようが何をしようが、人間の存在の本質は孤独なのだ。
そうしてぼくはあらためて考える。ねつ造した本意でもって自分をごまかし、だまし、しかしどうにも納得がいかない。つまり、不本意な日々ほど辛いものはないということなのだと思う。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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