憐憫でも哀悼でもなんでもなく
2017/08/22
小説を書き進めねばならないのだが、最近あった一件についてどうしても書きたいので、ここは素直に書きたいことを書くことにしたい。というか、小説は煮詰まってきて、書くのが苦しくなってきた今日この頃。まったく、力不足である。
閑話休題。
2日前に、長い闘病生活の末に、同い年の女の子が亡くなった。同い年、と書いたが記憶は定かではない。しかし、ほぼ同い年だったことは確かだと思う。
彼女とは、6、7年前に働いていた職場で知り合った。いわゆる同僚である。しかし、彼女は営業であり、ぼくは内勤で制作関連の仕事をしていたので、特に関わることはなかった。
働き始めて1年くらい経ったころだろうか。社長の自宅で社員全員を呼んでパーティが開かれた。出席した社員は50人超はいたので、全員と話すことなどまずあり得ないのだが、その時に、たまたま、口を利いた。
ありふれた会話である。現在の会社に至る経緯を話した。すると、ぼくと同じ九産大卒だということがわかった。東京は広い。人も馬鹿みたいに多い。だから、これはなんという偶然だろうかと、お互いに妙にはしゃいで、熱っぽくしゃべった。どうしようもなくローカルな、大学の近くにあった定食屋「ハロー」のメニューの話、ごはんの大盛りっぷりが半端じゃないということについて、そうそうそう!と、やっぱりはしゃいで、大げさなくらいに笑った。
それから仲良くなって、その年の大晦日には、もし空いてたらと言って、彼女にカウントダウンパーティに誘われた。ぼくには珍しく実家に帰らない年だったので、つまり完全に暇だったので、二つ返事でパーティに赴いた。場所は、東京のどこだったか、もはやまったく覚えていない。それくらい前のことだということかもしれない。
ここに、一葉の写真がある。一葉なんて表現をしたが、デジタルカメラで撮影した、PC上の画像である。カラオケの一室。背景と人物の面積の割合がちょうど5割ずつくらいの大きさで、ぼくと彼女が並んで写っている。彼女は右側に座り、マイクを左手に、目をぎゅっと閉じて熱唱している。ぼくはその横で、眠たげに酩酊した表情で、これまた目を閉じている。と、いかにも深刻めいて状況を描写してみたが、つまるところ、ありふれた写真である。だれの携帯の画像フォルダにも、一枚や二枚は入っているような、どこにでもいる浅薄な若者がなんの気もなく撮影したような。そして仮にその画像が消えても、別段の後悔もないような、そういう写真である。
ふつうに見れば、何の感慨も起こさせない写真だと言っていい。しかし、彼女はもうこの世にはいないのだと思うと、俄然、深い、深い感慨が湧き起こってきてとめどないのである。今頃はもう、荼毘に付され、火葬場の煙突から一筋の煙となって舞い上がり、天に昇っていっただろう。地上には、彼女を形作っていた骨だけが残されている。それはただ、カルシウムというか、あまりにも物体でしかなくて、そこに彼女の名残を見つけるのは、とても、とても難しい。
写真の中の彼女は、あまりにも、滑稽なほど元気そうである。死と対極に在ると言っても過言ではないほどに、生気に満ち溢れている。
故人に対していささか失礼な表現かもしれないが、彼女は、実に馬鹿っぽい容貌をしていた。おつむ、大丈夫かなというような、馬鹿っぽさ。しかし、同時に、底抜けの明るさを持っていた。もちろん泣いたことがないわけはないだろうが、彼女が何かに悩んだり傷ついたりして暗い顔をしているというのは、ちょっと、想像がつかなかった。少なくともぼくには、想像ができなかった。
そんな彼女が、死んだ。生と対極にある死の中に、納まった。
人が死ぬというのは、あまりにも当然過ぎることだ。ここ数年は疎遠になっていたとはいえ、いつか仲良く過ごしたことのある同年の彼女の死は、ぼくにとって、非常な違和感を覚えさせる。
人の命に早すぎるも遅すぎるもないということは、真理である。30歳で生を終えた吉田松陰は、人の一生は長短にかかわらず、春夏秋冬の四季があると言った。
”十歳にして死ぬものには、その十歳の中に四季がある。
二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季が、
五十、百歳にもそれぞれの四季がある”
だから、いくら若くとも、死ぬことを、異常だとは言うまい。しかし、どうしようもなく、うまく処理しきれない違和感がぼくの中に生じていて、たぶんそれは、死ぬことがいくら当然のことだとしても、それでも、やはり若すぎるという、この世の非情さ、残酷さへの嘆き、しかし、それでもこの世で生きていかなければならないという、無力過ぎる自分の心もとなさからくるのかもしれない。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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