ほぼエッセイ、ときどき現代の美術とアート。

愛すべき年の差

  2017/08/22

最近、女子高生と飲む機会があった。

と言ってもその手のお店ではない。売ったり買ったりという犯罪でもない。複数人で歓談および飲食したというだけのことである。しかしどうして、説明すればするほどグレーに、あるいはブラックに感じられるのはなぜだろう。それほどに女子高生という存在は社会によって歪められているという現代の病理ではなかろうか。

訪れたのは、ふつうの居酒屋であった。着席すると、店員が飲み物の注文を取りにくる。ナマという声が飛び交う中で、女子高生はもちろんソフトドリンクで、カルピスであった。当たり前ではあるが、そうか、彼女は大人ではないんだよなと思った。

人間は往々にして自己中心的な存在である。それで、ほとんど必ずと言っていいくらい自分の立ち位置からしか世界を観ることができない。私ならば、「男、33歳、独身、会社員」等という条件に拘束されざるを得ないのだ。

自然と周囲には似たような条件の人々が集まることになる。そこで女子高生という存在はあまりにも遠い。普段、まずもって接する機会などないのである。

そうして、私からすると彼女は確かに子供なのであった。とはいえ、彼女は大人びているというか、実にしっかりとしていた。自分の置かれている状況や考えを、この年頃特有の照れやはぐらかしもなく、ひとつひとつ理路整然と述べられるのである。

そんなこともあって、皆ほどなく彼女を対等の大人として扱い始めた。お酒が進むに連れ、場の空気が膨らんでいった。お酒のおかわりや、おつまみの追加注文が相次いだ。そんな折、彼女はひとり『漁師風ツナ丼』なる”ごはんもの”を希望した。

その時、私はふっと我に返った。やはり子供なんだよなあというか、自分たちとは圧倒的に隔たった存在なんだよなあと、改めて思わされた。大人にとっての酒席の作法というものがあるとすれば、序盤から一人でごはんものを食べるなど、ほとんど禁じ手であろう(あくまでも大人の世界の感覚の話であって、彼女にはいかなる非も一切ないことは言うまでもない)。しかし彼女は若くて、とても若くて、青春の真っただ中にあって、お腹が空いてしょうがない年頃なのである。

かつての私もそうだった。毎日何杯もごはんをおかわりして、母親を呆れさせつつ腕を振るわせたものである。そんな母親は今の私を見て、「食べなくなったねえ」と心配がるが、30も半ばになれば当然だろう。

人柄や知識の多寡ではなく、年齢が隔たっているという、ただそれだけで気づかされることがあるのである。それは、私にとって実に新鮮な体験だった。あるいは、子供を産み育てるということは、日々このような気づきに出会うことなのかもしれない。

よく老人が、若い人と接すると元気がもらえると言うが、それはこういうことなのではないだろうか。凝り固まった価値観、埃がたまった牢獄のように閉ざされた現在の状況を、軽やかに開け放って明るい光と新鮮な空気を吹き込んでくれる。

そう考えると、いつの時代も社会にとって子は宝であり、希望なのだろう。確かイギリスの選挙だったか、ある候補者が言っていた。「子供は未来の100パーセントだ」。言外に、その未来には現在も含まれているに違いない。

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