夢は行為の先にしかない、911から11年

最終更新: 2017/08/22

とかいうことを思いながら走っていた、今朝6時。堅苦しく暑苦しい人間である。よく言われるが、最近またつくづく真面目だと言われた。座る時は正座だし、とも。

昨日はまたしてもぐったりと疲れていたので20時過ぎに寝て2時起床。次の絵のS15号に取り掛かる。朝もはよからプロジェクターで投影して描き描き2ゲーム、したのだが、画像を撮り忘れたので適当に過去の画像。ある夏の日の実家の庭。なんか、このプールから足が生えているように見えてけっこう怖い……。

ぐだぐだ言う前にまずやれよと、そう将来子供に教育しようなんて思った。なんなのだろう、最近ぼくの中に教育熱があるらしい。ああしよう、こうしよう。まあ、そんなものをいくらほどこしたところで、十中八九ただの子供にしかならないだろうけれど、しかし、優れた子であるとは思う。いや、単にぼくに似ていると思う。激似だ……優れておる。

それはともかく今日は911から11年。ラジオからそう伝えられた。

ラジオのDJが、ちなみに別所哲也が、しきりにあなたは11年前の今日、何をしていましたかとリスナーに問う。

リスナーのぼくは思いだす。ぼくは大学生で夏休みで実家であった。飛行機が突っ込んだまさにその瞬間は、トイレで大便をしていた。

大便を終えてリビングへ行くと、お父さんが、「こりゃあ事故じゃあないで……、絶対。おかしいで」とか言っていた。

テレビの中の、積み木のようなビルから、もくもくと煙が立ち上っていた。そうして見ていると、二機目が突っ込んだ。アッと家族一同が声を上げた。

その日の、その時だけ、はっきりと覚えている。前日も、その次の日も、ぼくが何をしていたのかどこに居たのか、さっぱり記憶にない。

歴史の節目というか、胸に刻み付けられる瞬間というのは、確かにあるのだろうと思う。

たとえば8月6日や8月15日に関しては、ぼくにはなんにも思い出す出来事がない。というのはきっと、ぼくがそれを何も体験しておらず、当事者ではないからだろうと思う。

この日は原爆が落ちました、この日に戦争が終わりました、という出来事。体験を伴わない、形骸化した知識は、恐ろしく脆弱だと思う。

しかし、かといって、それをテレビで見たから、それをしっかり覚えているからなんだというのだ、という気もする。そもそもテレビで見ていたというのは体験と呼べるものなのか。

わからない。

あれから劇的に世界は変わったらしいけれど、ぼくは今も11年前のまま、何ひとつ変わっていないような気さえする。

そうして時間だけが流れたような気がする。人生ははかない夢にすぎないとはよく言うが、なんか、だんだんと、その言葉が美化でも詩的でもなんでもなくて、どこにでもいる月並みな人間がただただ素直に実感を口にしただけのように思える、そんな11年後のぼくである。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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