適当のテキトー

最終更新: 2017/08/22

自分の人生は本当に適当だなあと思う。ぼくはもっと真面目で誠実な人間だと思っていたのだけれど、想像以上に適当だったという現実が今である。

大学の時にとても良い絵を描く友達がいて、その色使いはどうやって処理してんのか、何を考えているのかを聞いたことがある。そうしたら彼は「テキトー」だと言った。

というか、何を聞いても彼の答えはだいたいいつも「テキトー」だった。それがひどくかっこよかったのを覚えている。

いま、その彼とはずいぶんと疎遠になってしまったが、おそらくは堅実に生きているようである。もちろん、現状を詳しくは知らないが、”テキトー”なところがかっこよかったのになあ、なんて勝手に思っている。

そのテキトーに影響されたのかどうか、ぼくはテキトーになった。最近はよりいっそう、いろんなことがどうでもよくなってきた。

何もかも、馬鹿らしくて取るに足りないことだと思う。大事なことといえば、せいぜいが生死に関わることくらいではないだろうか。誰かと恋愛するだとか、結婚するだとか、友達と疎遠になったとか、本当にどうでもいいと思う。

どうでもいい。

前はそういういちいちに嘆き悲しんでいたのだけれど、ここにきてようやくどうでもいいと思えるようなった。

今がよければそれでいい、というと語弊があるかもしれないが、いまいまだけ、ちょっと仲がいい人(決して長続きはしないと解っている)だとしても、それはそれでいいじゃないか。むしろ、そういう人が現れては消え現れては消えを繰り返せばいいじゃないか、という気がする。

絶対後悔するって言われても、今は後悔しない。そのときになったら後悔すればいいだけの話。未来のことまで心配するのは「杞憂」のことわざにある通り、愚かなことだと思う。短絡的で直情的だって、おおいに結構。やりたくないことは絶対にやらない。今やりたいことだけをやる。ぼくが今やりたいと思えることだけを信じて突き進みたい。

家庭とか子供とか、後々に残るものを築く必要なんてあるのだろうか。そんなもの、ぼくの場合は自分の芸術で十二分に志向しているのだから、人間関係にまでそんなものを求める必要なんてないのではないだろうか。

そもそも、人と人との関係なんてものは恐ろしく儚いものなんだと、古今東西を振り返るまでもなく解りきっているのである。そこに永遠なるものを志向しても疲れるだけではないか。どうせ疲れるならば、もう少しマシな何かで疲れればいいのではないだろうか。

虚無感にも近いけれども、どうして、そうでもない。未来がとても明るく見える今である。最高に楽しい人生が開かれているように思える。何の保障も理屈もないけれども、そう信じられる今である。

人生は何度でもやり直せるなんて言葉は寒々しいこと極まりないが、しかし、本当なのだから仕方がない。ぼくは、もう一度、やり直そうと思う。恋愛も結婚も友達も、もう一度、一から始めようと思う。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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