死んでみるもんだ、ったりすると思う

最終更新: 2017/08/22

つまり、どこにも行きたくない-DVC00142.jpg

なんでもないふとした瞬間に、急に祖父のことを思い出した。
「おそろしいのう」
そう、独り言にしては大きすぎる声で、言った、といっても別に戦争体験かなにかをしゃべっていたわけじゃなく、僕が異常な勢いでカレーを何杯もおかわりするのを見て、そう言ったのだった。
昨夜はカレーを作って、朝ごはんにカレーを食べたからそんな場面を思い出したのかもしれない。
それは小学生のころだろうか、中学生のころだろうか、その両方だろうか。
僕がカレーの三杯目のおかわりをするあたりで、いつも決まってじいさんは心底心配そうな顔をして、こいつの腹は大丈夫か、食べ過ぎて裂けてしまうんじゃなかろうかという風に、「おそろしいのう」とつぶやくのだった。
しかしじいさんの心配をよそに、ぼくはそう言われるのが嫌いじゃなかった。口にこそ出さないが「へへっ、まだまだ食えるぜっ」と、変に得意になって、むしろ更に心配させようとするかのように、無理して食べまくったものだった。
でまあ、べたべたな感情の動きとして泣けてきた。泣きたくなった。
じいさんはある意味でいかにも現代社会らしい朽ち方というか死に方をした。つまり要介護、寝たきりというわけだ。
日々悪化しつつ回復しつつしかし全体的には悪化する一方の背中の床擦れよ。いきむ力もなくなって指で掻き出される汚物よ。しかしそれが人間よ、という気もする。
まあそんなこんなでぷっつり事切れたのだが、なぜだか僕が思い出すのはいつだって元気なときのじいさんなのだ。
時間の浄化作用とでも言うべきものだろうか、逝ってしまって数年たって、今、僕の頭の中でじいさんはやけに元気で、しかもかなり素晴らしいじいさんだったなあということになっている、あくまで頭の中では。現実にはいろいろとむかっ腹の立つこともあったが、今じゃあビューティフルワンダフル祖父サイコー!というくらいになってしまっている。
人間の頭なんていい加減なもんだと思う。
そんなこんなで今日のタイトルのようなことを思ったってわけ。
誰の言葉だったか、死のうと思うことと実際に死ぬことは違う、ってのがあったけど、そう考えると、じいさんは遠くで暮らしてるとかそういうのじゃなくもうこの世にはいなくて世界中を隈なく探しても会えないっていう事実が、ぼくの中のじいさんを美しくするのだろうと思う。
よく、死んだ人の話をするときに、「今、もう一度あの人に会えるとしたら、何がしたい(言いたい)ですか」って質問があるけど。僕ならばこう言う。
二度とは会いたくないね。せっかく美しくなった思い出が、また汚れちゃうじゃないか、って。
生きているうちは、汚れにまみれなければならないことを知る、知る、思い知る。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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