新品からジャンク品まで
2017/08/22
夏の終わりにあった、祖母のお葬式で興味がわいたので、葬式に関する書籍を買った。読経流れる葬儀の最中に、amazonで。
数日後、【「お葬式」の日本史―いまに伝わる弔いのしきたりと死生観 (新谷尚紀/青春出版社)】が届いた。
いま、ようやく4分の3ほど読み進めたところだが、夏は昔日、まもなく木枯らし吹く冬である。つまり、まだ読み終わっていないということはあまりおもしろくないということである。
私としては、原始時代くらいにまでさかのぼって、なぜ人を埋葬するようになったのか、あるいは人が死んだところに何らかの目印をつける、墓石の原型となるような行為はどのように始まったのか、読経の始まりはいつか、というようなことを知りたかったのである。
しかし、ページをめくれどめくれど、江戸時代のお殿様、近代では天皇の葬儀の様子などが書かれているばかりで一向に私の知りたい情報は出てこない。ちょうど今朝読んだところでも、福沢諭吉の葬列はおよそ1万5000人にも及んだとか、中江兆民は「一切の宗教的な儀式は行うな」という遺言をしていたため、いざ死んだ後にどう処理しようかと考えあぐねられた末に、「告別式」という、現在ではごく一般的な儀式が始まったとか――これは私の求めていた感じに近いので、ちょっと惜しい――いやあ、そういうのじゃないんだよなあということばかり書いてあるのである。
正直、もう読みたくないのだけれど、なんでも読み始めたら最後まで読むというポリシーがあるので、嫌でも読み進めねばならない。
あーそう、ふーん、どうでもいいなあと思いながら読んでいると、単に文字を追っているだけになり、次第に頭はよそ事を考え始めるのが人間というものである。
そうしてふと、葬式葬式と簡単に言うが、自分もいずれ葬式される側になるんだよなあと、当たり前のことを思う。それから、祖母の顔が浮かぶ。いかにも人間の終わりらしい顔をしていた。人間としての肉体を、耐用年数いっぱい使ったという感じ。真逆は赤ん坊で、彼らは”新品”である。
いつだったか、この「赤ん坊は新品」という表現を思いついてからというもの、赤ん坊を見るたびにつくづく新品だと思うようになった。その肌つやを見てみればいい。確かにそれはまごうことなき新品である。その考え方で行くと、若者は新古品、おっさんおばさんは中古品、じいさんばあさんはジャンク品ということになるだろう。
老人をジャンク呼ばわりするとは、失礼極まりないと感じられる向きもあろうが、よく考えてみれば、あるいは至極真っ当な表現のようにも思える。というか、生まれて死ぬという人間の一生を考えるにあたって、この表現方法は、実に正確な自分の立ち位置を教えてくれるのではなかろうか。
たとえば、中古品が過剰に若作りをして新古品を装う。すでに開封してあるにも関わらず、ご丁寧にそれらしいパッケージングを施して、買ってから一度も開けてません等と虚偽申告をする。誰が考えても即アウトである。というか犯罪である。そりゃあ、少しでも高く売りたいという気持ちはわかるが、嘘はいけない。中古品は中古品として正直に申告しなければならないのだ。たまたまうまく騙しおおせて高値で買い取られたとしても、いつ告発の連絡があり返金を迫られるとも限らない。
逆に、新古品を中古品と偽るのもまた許されない。たとえば未成年にも関わらず、春を売ったり買ったりなどは言語道断である。間違っても中古品と部分結合及び合体などしてはならない。そんなことをすれば、新古品も中古品も、早晩それぞれが”ジャンク品”になることだろう。いやほんと、まじめな話。
それはともかく、新品、新古品はもちろん、中古品にもそれなりの価値があり、取引の対象には違いない。それでは、ジャンク品はゴミだろうか。否、しっかりと価値があるのである。
もちろん、ジャンク品は壊れているからこそジャンク品であって、もうそれ単体では役に立たないかもしれない。しかし、その一部を活用したりして、他の中古品を下支えしたり、あるいはジャンク品を中古品に押し上げたりする。これはちょうど、老人の持つノウハウの継承や、後進への人生の語り聞かせと考えられるだろう。そしてなにより、ジャンク品があるからこそ、新品があり新古品があり中古品が存在するのである。
それぞれに、尊い役割があるものだ。人間、何をおいても身をわきまえることこそが肝要なのだ。
そうして、中古品の私は中古品らしく生きていかなければらないと思う。とはいえ、往々にして新品や新古品を懐かしみ、ときにはうらやましくも感じたりする。あるいは、刻々とジャンク品になってゆく恐怖もある。しかし、中古品には中古品にしかないよさがある。何より安い。我々は、君たちより断然安いのだ。それにまだジャンク品ではない。単体でも十分に使える。つまりお得。お得さこそが、中古品の最大の魅力である。
人間でいえば、味があるというやつである。噛めば噛むほど味がでる、まさにスルメである。少量で酒が進む。やっぱりお得である。とにもかくにも酔っぱらえば、新品だろうがジャンク品だろうがもはやどうでもいいだろう。
しかし、度を越して二軒三軒とはしご酒、果ては新古品のパッケージを見境なく破りまくるなどということになれば話は別である。中古品の権威は地に落ち、たちまちジャンク品、いやもっとスクラップになること必至である。それこそ新品や新古品の汚れない凛とした姿を見習うべきだろう。老いては子に従え、いわゆるリサイクルということである。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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