大根おろしの話

  2017/08/22

大根おろしが好きだ。

たとえば、焼き魚に大根おろしはすばらしい。しかしお店では、たいてい親指の先くらいの量しかのっていない。もちろん、それがふつうなのではあるが、ぼくとしてはもっと大根おろしが食べたい。

それで、お店の人にお願いすることになる。「大根おろしを大盛りでください」と。笑顔で応じてくれる店もあるが、けち臭い店では「追加料金がかかりますが……」なんて無粋なことを言う。そういう時、ぼくは「構いません。ください」と力強く即答する。大根おろしに金の糸目はつけないのである。

するとまあ、小鉢なんかに入れた、親指二つ分くらいの大根おろしを出してくれる。が、正直、これでも足りない。とはいえ、これ以上お願いするのもあれなので、そのくらいで我慢する。

我慢。それは確かに我慢である。さんまの塩焼きだとすれば、片側食べたところで全部無くなってしまう。サバの塩焼きであれば、3分の1くらい食べたところでおしまいである。そのあとは、焼き魚の心の友、いやもっと、泣き笑いして育った兄弟、いやいやもっと、腹を痛めた我が子のような大根おろしを喪失した状態で食べ続けなければならないのだ。

それは、とてつもなく悲しいことだ。辛いことだ。こんなにも非情なことがあっていいのだろうか。これからどうやって生きていけばいいというのだろう。神様! いいえ、悪魔でもいい! 助けてください! 我が子を失った母は、たいていそのような問いを天に地に投げかけるものである。

大根おろしを失った焼き魚は、明らかに精彩を欠く。ここからはぼくの一番好きな、さばの塩焼きで話を進めさせていただきたい。

顔色が悪い。青ざめている。青魚のさばだけにというお寒い洒落ではない。まだ半分も身をほぐされていないさばは、まさにこれからというところである。人間で言えば18、19。まさにこれから彼や彼女の人生が始まるというところである。流れ出した脂が、てらてらと身を光らせて美しい。きっと、ぼくの唇もまたてらてらとしてグロスを塗ったかのようだろう。

しかし、大根おろしは無い。無くなった。昔、ジーベックというファスナー付ポケットのCMがあったが、まさにあの状況である。中国地方のローカルCMかもしれないので、簡単に説明しておこう。

ビジネスマンが空港を歩いている。これから飛行機に乗ろうというときに、チケットがない。ポケットというポケットを探しまくるがやっぱり無い。どこかで落としてしまったのだ。ガーンというベタな効果音が鳴る。ポケットがジーベック(ファスナー付ポケット)だったなら……というオチである

そう、ガーン、である。途方に暮れざるを得ない。大根おろしは輝かしい未来への片道切符なのである。それが無くなってしまった。若い身体に満ち満ちるエネルギーが、激しく逆流して並々ならぬ焦燥感と自責の念、誰にぶつけられるわけでもない憤怒に変わる。

それでも、もう子供ではない。だから、ぐっと堪えて、自分の力でこの苦境を乗り越えなければならない。だけど、もう、喉元まで出かかっている。それは甘えか、大人への第一歩か。「大根おろしのおか、おか、おか……」。

「おかわり」という、その簡単な言葉が言えない。すこしばかり、大人の仲間入りにはまだ早いのだ。ごく薄い、しかし妙に強靭な、ビニールテープのような照れがある。もう忘れかけていたはずの反発心が蘇る。

お母さんに電話しようか。そう思う。しかし、「あんたはほんと肝心な時に限って……」なんて小言を言われるのは目に見えている。人生の大切な門出の日に、そんな汚点をつけてしまうことに、感じやすいピュアな心はとても耐えることができない。

激しく逡巡する。そして見つける。これかもしれない。それは卓上の”お酢”であった。おもむろに、ほんの少し、二滴か三滴、さばの切り身の端っこに垂らしてみる。それからがっぷり四つに組むように、酢を垂らしたあたりの身を持ち上げる。期待と不安で震える手を、箸先を、口に運ぶ。

舌の上に着地する。噛む。広がる甘味と脂。噛みしめる。ほんのり磯の香りがする。海が見える。そこへ酢の酸味が、ちょうど頭上を舞うカモメのような爽やかさを演出する。しかし、カモメはすぐに飛んで行って見えなくなってしまった。なんとはないさびしさを覚える。酢でもいいけれど、いいのだけれど、でも、それは大根おろしではない。

物足りなさから、自然とさばをもう一口つまむ。やはり、海が見える。なんだか、心が落ち着いてくる。何もかも、とても小さなことのように思えてくる。海は、広いなあ、大きいなあ。そういえば、母なる海なんて言葉もあったっけ。

お母さん。

もう、迷いはなかった。携帯を取り出して、電話した。電話の前で待ち構えていたようにすぐに出た母に、言葉が蛇口をひねったように流れ出す。「わたし、チケット、無くしちゃって……」。不思議と涙は混じらなかった。ただ、安堵の気持ちだけが広がっていくのを感じていた。

予想に反して、母は小言も何もなく、「すぐ行くから」とだけ言って、電話は切れた。すべてを自分で解決することだけが大人なんじゃないと思う。素直になること、その大切さを知った瞬間だった。それは同時に、大人の階段をまたひとつ昇った瞬間でもあった。

さばは、もう青ざめてはいなかった。今、ちょっとだけ、大根おろしは席を外しているだけなのだ。だから、すぐに戻ってくる。何の心配もいりはしない。

「すいません」ぼくは店員を呼んだ。とても優しそうな中年女性がすぐにかけつけてくれた。ぼくは彼女の目を見て、はっきりと伝えた。「大根おろしのおかわりをください」。

「喜んで!」 全国、いや、世界中の海とつながっている「くつろぎの里 庄屋」に、二つの笑顔がはじけた。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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