みんなが働くわけ
2016/04/27
いろいろあって職場が変わった。
まあ、私の人生はだいたいいつもいろいろある。とは言っても、それは決して”複雑”ではない。いつだって至って単純な原因と結果でもっていろいろ起こっているだけである。
さて、あたらしい職場では、お昼休みが12時からと決まっている。しかもご丁寧にチャイムが鳴る。メロディなどではなく、典型的なキーンコーンカーンコーンというあれである。小学校かよという感じだが、まあ、牧歌的な感じで嫌いではない。むしろ好きである。そういうわけで、12時になると強制的にお昼休みに放り出される。
仕事の区切りがついていなくても、お腹がすいていなくても、とにかくはお昼休みに行けと、つまりメシ食ってこいというわけである。そういえば、12時に昼メシを食べる。この当たり前なことを、長らくやっていないなあと思う。今まで、お昼休みは自分のタイミングで1時間取るという方式の職場ばかりだったので、自然、昼の混雑する時間帯を避けて出るようになった。それで、最低でも13時ごろ、あるいは14時くらいだったりしたのである。
そういうわけで、相当に久しぶりに12時に昼休みに出てみると、想像を上回る昼メシ食わんとする人々の群に驚いた。というか引いた。
有楽町の駅前にある吉野家では、店の外まで行列が伸びており、その隣のうまいんだかまずいんだかよくわからないような中華料理屋でさえ、吉野家ほどではないが並んでいる。さらに隣のカレー屋もほぼ満席であり、とにかくはどこもかしこも昼メシを食う及び食いたい人々で溢れかえっている。
近辺の飲食店をざっと見て回っただけで、ちょっともう私は辟易してしまった。そこまでしてメシが食いたいかという感じである。この感覚は、あるいは地方出身者ならではの「並んでまで食べたくない」という価値観によるのかもしれない。だとしても、たった1時間しかない休憩時間を、たとえ5分10分でも並ぶならば、それは”時間の無駄”だろうと、私は思う。
正直、おまえら絶対、毎日三度三度のメシをしっかりというか過剰に食ってるだろうに、そんなに腹が減ってるわけがないだろうと思う。にもかかわらず、そこまでして食おうとするおまえらの精神は実にいやしい。いや、もっと、さもしいよ。さもしいってのは【品性が下劣なさま。心根が卑しい。意地汚い。(goo辞書参照)】ってことなんだよ。おまえらのお父さんお母さんは泣いてるよ? そんなにひもじい思いさせて育てたかねえ、悪かったねえって、泣いてますよ? そんなわけないでしょう? おまえらの腹や太ももを見てごらんなさいよ? どう考えたって、飢えた人のものじゃありませんよ?
ああ、やだやだ。薄汚いブタどもだよ。みんなブタ野郎だよ。ブウブウ屁こいてろよ、まったく。私はそう思いながら数々の飲食店及び大衆に軽蔑の念をやたらめったらに投げつけながら歩いた。と、ガード下に差し掛かると、一軒の立ち食いそば屋があった。のれん越しにちらと覗いてみると、混んではいるが、待たされることはなさそうだった。私はポケットから小銭入れを出し、入り口脇にある食券の自販機にお金を入れた。
かき揚げそば(うどん)400円、ごはん小100円を購入して入店した。もう十分に秋だというのに、店内はもわっと熱気がこもっている。細長い店内の両端に、幅の狭いカウンターが端から端まで通っている。立派な身なりの人も、いかにもみすぼらしい風采の人も、とにかくは皆一心にずるずるくちゃくちゃやっている。私がその背後を通り抜けようとすると、それぞれが微妙に身体をよじらせてスペースを空けてくれた。
厨房にたどり着き、麺を茹でたり出汁をついだりと忙しなく手を動かしているおっさんに食券を渡した。そばかうどんかを聞かれる。私は、「そばで、麺は半分でお願いします」と伝えた。すると、おっさんはいかにもしょうがねえ奴だなあという感じで、背後のどんぶりをあごで指し示した。見ると、10個くらいのどんぶりに、すでに麺がセッティングされ、あとは出汁をかけるだけという状態で並べられていた。
おっさんは言った。「麺は減らせないんですよ。食べれなかったら残してください。」
とっさに私は、あいまいに答えることしかできなかった。つまり、それを了承してしまったのだ。私が、もっと頑とした信念を持ち合わせていれば、「じゃあ、要りません」と言って、出ていくこともできたはずだった。しかし、それが言えなかった。
食べ物を粗末にすると罰が当たる。それは、宗教や国、人種をも超えて、万国共通の価値観ではないだろうか。いくら飽食の先進国とはいえ、残すことを前提で食べるなんてことがあっていいのだろうか。それがたとえ、ゴミのような立ち食いそば屋であっても、である。
あんた、いい死に方しないよ。私は心の中でそうひとりごちた。しかし、間もなくトレイに載せられたかき揚げそばとごはん小を受け取った瞬間、私もまた共犯者となり、同罪に違いなかった。すなわち、決してもう、いい死に方はできないだろう。
罪人となった私は足取りも重く、食べるスペースを求めてさらに奥に進んだ。かろうじて空いていたスペースにトレイと身体をねじ込んだ。その場所は構造上、壁から天井にかけてが斜めに傾斜しており、まともに直立することができなかった。そこで背を丸めほとんど腰をかがめるようにして、食事を始めた。
七味をかけて、そばをすすった。伸びているというか、給食のソフト麺のような感じで、うまくもなんともなかった。というかまずかった。いや、最も適切な言葉は”ろくでもない”だと思う。
ずるずるやりながら、周囲を見回す。進化の過程で人間だけが獲得した立位で、皆、懸命にそばを食べている。足元のカバンを気にしつつ、メガネを拭き、汗をぬぐい、ネクタイを背中に放って、メシを食う。そこはかとない切迫感、必死感が伝わってくる。私の体勢も体勢なので、込み上げるように、サラリーマンとはなんと大変な仕事なのだろうかと感じ入る。こうまでしてメシを食い、上司や取引先、あるいは妻や子供と戦わねばならないのだ。いったい、なんのために?
私は、結局、そばを残さず全部食べてしまった。正直、別に残してもよかった。しかし、なんとなく、周囲に感化されるように最後まで食べてしまったのだ。それは、個々のサラリーマンたちが放つ、何がどうあっても昼メシを食わねばならない、そしてそのエネルギーでもって働かねばならないという、ほとんど狂気じみた雰囲気だった。
かつて、ジャパンアズナンバーワンと言われ、エコノミックアニマルと揶揄された時代があった。しかし、それは決して過去のものではないと思う。こんな食事とも言えないような食事を、まさに単なるカロリーとして摂取して、ばりばりと忙しく働きまくる。おそらくほとんどの人は、それがいったいなんのためなのか、明確には自覚できていないのではないだろうか。高度成長期ならば皆あっただろう渇望的な物欲や所有欲なんて無いにも関わらず、ただただ無我夢中で、食べる→働く→稼ぐという円環を、ハムスターの回し車のように、何がなんだかよくわからないけれども目の前にあるからという理由だけで、ひたすらに回しているだけなのではないだろうか。
また今日も、12時がやってくる。ニーチェの言う――太陽が真上に昇り、すべてのものの影が消え失せると同時に、すべてのものが光に包まれ、あらゆる物事の差異が無くなり、善悪の価値判断すら消滅する―大いなる正午である。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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