再現ドラマみたいな恋がしたい

最終更新: 2017/08/22

テレビの見すぎかもしれない。

いや、もう何年もテレビのない生活を送っているが、結婚式さえあげればすべて万々歳となるようなイメージがいまだにある。

たぶんそれは、実家で見ていたある種のテレビ番組によって形成されたのだと思う。よくあるだろう、二人の馴れ初めに始まり、熱を上げたり下げたり、葛藤や不信との戦い、そうして結婚に至るまでの再現ドラマの類である。

それは概して”安いドラマ”には違いない。しかし、確かにその安いドラマを本気で生きていた男女がいたという現実が、それを安いドラマでは終わらせないのだ。

小説みたく、下手に過剰な心理描写がないのがいいのかもしれない。現実にあったストーリーだとなれば、受け手は勝手に想像し、共感しようとすり寄りさえする。

たとえば、携帯電話を握りしめて「何をしてるんだろう」と妻あるいは夫に語らせるだけで十分な効果が得られる。実際、三文芝居にも関わらずである。そんなことは、フィクションではとてもできない芸当だ。

現実には、揺るぎない強さがある。それがたとえ茶番でも、実話であればたちまち魅力的なものになる。よくある万引きGメンの番組など、その典型だろう。あれがフィクションだったらなんの面白みもない。

あるいは、映画みたいな恋がしたいという言葉がある。しかし、現実は映画にも勝る。しばしば終電間際の駅などで、肩に腰に手を回し唇を重ね、ほとんど一体化を試みるようなカップルを見かけるが、あれはまさに現実が映画以上だからこそなせる業である。少なくとも、あんな絵にならない安っぽい映画は自主制作ですらあり得ない。

映画ではよっぽどうまく伝えなければ人は泣かないし、笑わない。一方現実では相手にかるく冷たくされただけでも泣けてくるし、ちょっと冗談を言われただけでも笑ってしまう。

そうして再現ドラマの魅力は、そんな現実を再構築するところにある。笑って泣いて喜んで悲しんで楽しくてといろいろあった。そのいろいろを並べて、ひとつひとつ改めて振り返ってみると、なんだかんだ言っても、結局のところはよかったなあ、めでたしめでたしという感じになるのである。

何故か。もちろん、現実は映画でもなんでもない。無味乾燥な生活の連続だ。だけど、再現することで客観性が生じ、いつも一緒にいる人でさえにわかに赤の他人のようになって、日常のつまらない出来事でさえ劇的になって立ち上がり、そして――これは一種のパラドックスとも言えるが――映画のようになる。

スーパーへ買い物に行く、呑みに行く、洗濯を畳む、歯を磨く、あるいはただ一緒にいる、そういったすべてが特別なことになる。ああ、そうか、日々はこんなにも素晴らしいものだったんだと気がつく。ちょうど、病気になって初めて健康のありがたみを知るようなものだ。

願わくば、病気になる前に気づけたらいい。だけど人間は愚かなので、病気になるまで気づかない。しかし、大病をした人は往々にして死生観をはじめ価値観を変えることがある。つまり、”日常の非日常性”に気づくのだ。

そう考えると、「病める者は幸いなり」と言えるのかもしれない。少なくとも、平穏無事に生きてきた人には望むべくもない地平に達するだろうという点においては。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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