自分への手紙

最終更新: 2017/08/22

自分に手紙を書いた。

今までたくさんの手紙を書いてきたが(恋愛が九割)、自分に手紙を書いたことは一度もない。

まあ、いろいろ思うところがあって、とにかくは書いた。今の自分ではなく、過去の自分に対してである。

正直、初めはひどく馬鹿馬鹿しいことのように感じられた。だって、小学生か何かの授業みたいじゃないか。「未来の自分に手紙を書いてみましょう」みたいな。

だけど、どうして筆はなめらかに進んだ。ほどなくひとつのことに気がつく。当たり前かもしれないが、過去の私はいま現在の未来を知らない私なのだった。一寸先は闇とはよく言ったものだが、その闇をすでに光としているのが現在の私なのである。

たとえば交通事故。あの日、あの場所にさえ行かなければとかいう話はごまんとある。電車に乗り遅れていなければ、寄り道していなければ、怪我をせずに済んだ、死なずに済んだ。

人はしばしば未来を知りたいと願うが、そう考えると過去の私にとって今の私は神と言っても過言ではないような気がする。

それで、自然語調は自分に対する忠告的なものになる。「~するな」とか「~しろ」とか、まあ実際は自戒になるのではあるが、とにかくはそういう言葉がずらずらと並んでゆく。

つい最近まで、思考は行為に先立つものだとばかり思っていたが、どうも違うような気がしている。思考は行為を追いかけることしかできないのではないだろうか。現に、この手紙を書くという行為にしたって、まず行為があって、そのあとに気づきが発生したのである。

自分に手紙を書く。書き続ける。思考がそれを追いかける。内省が連綿と連なってゆく。ああ、そういえば、長らく自分を省みたことがなかったような気がする。いや、あるいは生まれて初めて自分を省みたような気がする。

客観性が生じる。他者のような自分が立ち上がってくる。なんて愚かなんだろうと思う。頭が悪すぎて胸が痛む。どうしておまえはそんなにクズなんだと情けなくなる。自分に対して発した言葉が、そのまま自分にはね返ってきて循環を始める。

ぐるぐる、ぐるぐる、考える。私はいったい何をやっていたのだろう。

一気に書き上げて、何重にも封をして閉じた。別にどこに出すわけでもない。ただ、もうすでに過去になってしまったその手紙を、さらに未来の私が読む。そうしてまた自分に手紙を書くとしたら、きっとまた何かに気づく。

それはもしかすると、多くの人は年の暮れなんかにちゃんと頭の中でやっていることなのかもしれない。一年を振り返るというやつである。思えば、私のそれはいつもおざなりであった。年末、ふーんあっそうで暮れていき、年始、去年も今年も人間が作った便宜的な時間の区切りでしかねえよと無関心なのであった。

少なくとも一年に一度くらいは、ちゃんと振り返るべきなのかもしれない。そうでなければ、いま自分がどこにいて、どこからどう来たのかさえ分からない。人はみな旅人だとしても、現在地を知らなければあてどもなくさまようしかない。

私は、どこかに行かなければならない、目指さなければならない。今から行けるところなんてたかが知れているかもしれないが、それでも、さまようよりはましだろうと思う。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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