わが街を走る

最終更新: 2016/04/08

ひさしぶりにランニングをした。引っ越してきて二か月あまり、二度目のことである。

しかし、土地勘ない、興味ない、家から出ないの三拍子なので、どこをどう走ればいいのかよくわからない。それに加えて周辺はどこまでも街中なのである。登戸には目の前に多摩川があり土手があったし、広島では徒歩圏内に海があり川があった。国立では水場は無かったが、数キロに及ぶ桜並木があった。

いずれにしろ、”清々しい”気持ちで走れる環境があった。しかし今現在、周囲にはそのような環境の片鱗すらも見当たらない。無数の車が排気ガスをまき散らし、低くうなるような騒音が響き渡るばかりである。あるいは、そんなところでも少し外れれば良質な空間が広がっているのかもしれない。わからないが、とにかくは走るために走り出した。

大きな幹線道路を少し外れると、下町風情あふれる道が幾筋も伸びている。と言えなくもないが、実際は狭い道が複雑に入り組んでいるだけである。その道を、大まかな方向だけを定めて当てずっぽうに走る。

しばらくすると、身体が火照り、汗がにじむ。そうしてハアハア言っていると、いやにホテルが目につく。それに何軒も続いている。ビジネスではなくプライベートな感じ、いやもっと、シークレットな佇まいである。さらに、それらホテルの半数程度は、入り口で黒スーツ姿の男が出迎えている。耳にインカムを付けて、なにやら内部スタッフとすぐに連絡を取れるようである。

なるほど、今度の家の近くにはこのような”水場”があったわけかと合点がいく。何はともあれ、ランニングコースは水辺に限る。嬉々として深く分け入って行くと、『入浴料28,000円』などの文字が目に入る。片田舎から出てきたイモ野郎には想像もつかないほどすばらしい風呂らしい。その風呂に入っていかないかと、黒づくめの男たちは客引きに余念がない。

しかし、私に声をかける者はいない。素人感覚では、ちょっと旦那、ひとっ風呂浴びていきませんかという雰囲気を醸し出しているように思うのだが、どうして、私に声はかからない。店に入っていった数人は、概して私と同じようにハアハア言っているように見えたのだが、どうやら私のハアハアと彼らのハアハアは違うらしい。

だとしても、それは彼らの怠慢以外の何ものでもないだろうと、私は思う。たとえば、腹が減っている人がいるとしよう。ある人は自炊を考えており、ある人は外食を考えている。しかし、どちらもとにかくは腹が減っているのである。となれば、スーパーにしろ飲食店にしろ、その人に営業をかけない手はないだろう。

私が風呂屋のオーナーならば、スタッフを厳しく叱責するに違いない。おんどりゃあなんでさっきハアハア言いよった奴をひっぱってこんかったんかと、あるいは広島弁で詰め寄ってしまうかもしれない。にも関わらず、私は見事にスルーされ続け、ほどなく水場を後にしていたのであった。

自宅に帰り着き、風呂にお湯を溜めた。バブをひとつ投げ入れて、深々とつかった。微炭酸の泡と徐々にピンク色に染まるお湯の中で、2万8千円の入浴のことを考える。もしも幼い子供に1回2万8千円の風呂があると言ったら何を思うだろうかと想像する。ばかでかい風呂、金の風呂、ダイヤモンドの風呂、あるいはゼリーやプリンの風呂。

そこであえて本当のことを教えてあげたらどうだろう。女の人と入るお風呂なんだよと。しかし、「そんなの毎日入ってらあ」と、子供であればあるほど即答されそうで、好きで大人になったわけではないが、子供が一番いいよなあと思いながら、ピンクのお湯にもぐって鼻をつまんで息を止めたのだった。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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