意志とは何か

  2017/08/22

じどうしゃやさんになりたいな。

私の幼稚園の卒園アルバムには、そう書いてある。

それから30年近く経った今現在、私は自動車屋さんどころか、まともな運転もあやしいペーパードライバーでしかないが、その時分はそう思っていたのだろう。

きっとおもちゃのチョロQなんかを使って、自動車屋さんのまねごとをしたり、実際に車に乗る時には歓喜していたのかもしれない。

しかし、どこかであえなく自動車屋さんなどという希望は跡形もなく消え去り、いまは芸術家のまねごとをやっている。

どこでそうなったのか。確固とした意思や決意があったのかと考えてみると、ちょっと意外なほどにあやふやである。

なぜこうなっているのか。一番正直で誠実な答えは”たまたま”、つまり偶然だと思う。

たまたま、何不自由ない環境に生まれた。子供の頃から絵を描くのが好きだった。小中は公立に行けたが、勉強しなかったので、高校は地元でも有数の偏差値の低さを誇る私立の男子校にしか入れなかった。そこでもやっぱり勉強しなかった。同級生に東京藝大の教授の息子がいた。美術の授業の時に、その息子のデッサンに感銘を受けた。勢いで美術部に入ってみた。進路を決めなければならない頃、漠然と遺伝子とか科学的な専門学校等を考えていたが、美術部の顧問に美術系の大学を勧められた。勧められるがままに、まずは画塾に通った。美術部の先輩も行っているからというだけで勧められた大学に進学した。気の置けない友人に出会った。激しく感化された。その友人と同様、就職活動など一切しなかった。画家を目指して上京した。それから10年後が、いま現在である。

一番大きい”たまたま”は、やはり「何不自由ない環境に生まれた」ことだろう。とはいえ、それを論じ始めるときりがないので、その後の”意志”というものに焦点を絞りたい。

大学に入るまで、私に意志は無かったといっていい。驚くほど何も考えていなかった。昔から思いつきばかりで、何をやっても続かず、意志薄弱の代表のような性格であった。そのため、どう控えめに見積もっても「芸術家になる!」なんて意志はこれっぽっちもなかった。

大学への進学は能動的に見えるが、実際は、先生に勧められたからという、ただそれだけの理由だった。他の大学を勧められていれば、はあそうですかとそちらに行っただろう。デッサンとかの入試を受けて美術系の大学に入ってからも、それは変わらなかった。ごくごく、”なんとなく”絵を描いていただけだった。

その大学は、偏差値も低いが、美術のレベルも低かった。学生の意識も低かった。それで、なんとなく絵を描いていただけにも関わらず(そもそも真面目に絵を描いている人は皆無だった)、プライベートでも絵を描いていた自分が自然と突出しているような状況になった。自分の創作意欲および作品はすごいのだと思い込むようになった。自尊心が肥大化していった。ほとんどすべての人を見下すようになった。同時に、友人の一人を異常に尊敬するようになった。

これは、別に自分の意志でもなんでもないと思う。状況が、私をそのように変えただけであって、決して意志のような具体的な何か、”こうなろう”あるいは”こうなりたい”というような力は微塵もなかったと思う。ただ、その時々の状況に反応した、その結果でしかない。

その後、友人の考え方や方向性に完全に同意して、周囲が就職活動をし始めるのを横目に、なんの当てもなく上京することを選択した。ここにおいて、私の人生において、初めて意志らしきものが発現したように思う。

それからまた、今日に至るまでの十年間、ほとんど意志らしい意志は無かった。というような流れでまとめるつもりだったのだけれど、いやいや、人との、特に女性との出会いと別れ、調理師専門学校への入学、故郷広島へのUターン就職、それから再上京という、その都度、意志らしきものは発揮したのだと思う。

そもそも今回の記事は、「意志の力なんてものは無力で、状況こそが人を変え、人生を決める。」というような結論を導き出したかったのだけれど、図らずも意志とは何かということを考えることになってしまった。どうやら、意志というものは、慣用句にあるような「意志を”持ち続ける”」というようなものではなく、ときどき、選択を迫られたときにだけ、「小出しにする」ものであるらしい。

それでも、意志と状況のどちらが強力かと言えば、私は状況だと答えたい。私が職もままならない困窮者で、日々の暮らしにさえも事欠くような状況であったとしたら、とても芸術家を気取って作品など作れたものではないだろう。かの画家の関根正二は、結核と戦いながらも絵筆を持ちづづけたというが、私の意志はそこまで頑強ではない。むしろ苦しいなら苦しいままに、おとなしく床に伏せてしまう、どうしようもなく脆弱な精神しか持ち合わせていないのだ。

なにはともあれ、その時々の状況こそが、もっとも強力に私を形成するのだと思う。また状況が変われば、恐ろしい力で捻じ曲げられるように私は変わってゆくだろう。たとえば結婚など、それはきっと否応なしに変化を迫られる、新たな”状況”なのだろうと思う。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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