ぼくのスニーカー

最終更新: 2017/08/22

つまり、どこにも行きたくない-F1000893.jpg

っっもう、今日のタイトルっつったら終わってるね。まったく小学生以下のセンスだよ。「ぼくのなつやすみ」と同レベル。ああやだやだこれだから凡人はやだよー。
でも載せると言って載せてなかったからさ、ぼくのスニーカー……て書くとなぜだか頭の中で♪ぼくの大好きなクラーリネット♪ っていう例のやたらとスタッカートが効いてる曲が流れ始めてきた。
閑話休題。
最近の樋口のブログに良いユニット属してるなあと思ったとか書いてあったから、ほんと、ART DIS FORってなんだろうかと考えてみた。以下その考察。
ART DIS FORっていったい何者って、ゆるい二人がちょっと固めに結束してアートってやつを作ろうかー、というユニット、てなもん。
それで思った、そもそも自分たちのような存在自体が現代的なんじゃないだろうかと。
たいした一貫性もなくある意味では行き当たりばったり、つまりふわふわ流れる雲みたいな感じでやってるもんだから、会うたびに意見や意志や信念なんかがコロコロコロコロ変わる。
コロコロというと悪いことのようだけど転石コケむさずともいえるじゃないか、ローリングストーンノーモスとかなんとかいう英語もあったじゃないか。
それは昨日のノーをなんの痛みもなく容易に今日はイエスにしてしまえるということだろう。
かつて(いや今もだけど)コンセプトとか呼ばれるものは一貫性があって当たり前だった。昨日と今日で話が違うと「思いつきでなんだか浅いよね」となるのである。
そういう意味ではぼくらはあまりにも軽薄で胡散臭く、思いつく限りのネタを出し合い話し合い、そして毎回バカみたいに目を輝かせて「次のはすげぇ!」とか言い続けてる僕らはアーティストというよりはたちの悪いオプチミストだ。
ぼくらにあるのはひどく恣意的な気分まかせのやる気だけで、しかもしょっちゅうアートしている自分たちにもこの世界にも飽きたり熱中したりをしている。
だからダルい時はダルい、というかだいたいダルい。絵を描くことはかったるいことだ。
そう、どこにでもいるうなだれた若者がちょっと元気にアートを語って(騙って)いるだけなのである。
急にやる気が出たり、また急に無気力になったり、そういうしょうもない若者。
くたばれ東京藝大展の時はたまたまけっこうなやる気が出ただけであって、ああいうエネルギーが僕らのある一面の真実だったとしても絶対に全てではなく、またもう二度とあんなカタチでのやる気は出ないかもしれない。
たぶん、アートなんてものはほんとはどうだってよくて、ただただ楽しく生きたいからやってるだけかもしれない。
こう並べてみると、救いがたい俗物根性丸出しの人間には違いない。しかし喧騒が、パワーがあるのはいつも“俗世間”であり、美術館はたいていいつも静まり帰っている。学芸員は眠気と戦い続け、僕らは色眼鏡をかけて歩き回る。
実際、なにが素晴らしいのかなんてさっぱりわからんのだ。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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