ひとりと、酒と、居酒屋

  2016/04/08

ひとりで酒を飲むようになったのはいつからだろうか。

少なくとも、大学生の頃はひとりで酒を飲むという習慣はなかった。理由は単純で、ひとりで飲んでも全然うまくないからだった。

そう、ひとりで酒を飲み始めたのは、上京後、半年くらい経ってからだったように思う。福岡と東京との、遠距離恋愛のさびしさから、ひとり酒を覚えたいというか、ひとりでも楽しく充実した時間を過ごすことはできないものかと考えたのだ。

小田急線の、成城学園前駅近くの居酒屋「村さ来」(チェーン店)に一人で足を踏み入れたのが、人生で初めてのひとり呑みだったと思う。しかし、まったく落ち着けず、生ビールを一杯と、お通しだけを食べて店を出たように記憶している。

店を出て、帰り道、彼女への愛おしさだけが募った。彼女さえいれば、すべてが楽しく、嬉しいはずなのにと、ほとんど泣いていたような気がする。

まあ、その彼女とはほどなく別れたのだが、ひとり酒を覚えたいという意思だけは、その後もぼんやりと残った。

しかし、次の記憶は1年後くらいまで飛ぶ。京王線仙川駅からすこしばかり離れたところにある、個人経営のおでん屋で、一人それらしく呑んでいるところを、妙にはっきりと覚えている。

いつ、何がどうなってひとり呑みを楽しめるようになったのかは、定かではない。ただ、そのあたりから、現在まで連綿と続く狂気ともいえる居酒屋愛が始まったことは確かである。いや、大学の頃から居酒屋を愛してはいたが、この十年ばかりで培った私の居酒屋哲学としては、一人で居酒屋を楽しめるようになって初めて居酒屋を語る資格があるのだと言いたい。

居酒屋という場所に、いつもいつも誰や彼やと連れだって、わいわいがやがや大笑いしかしたことがないという人には、居酒屋を語る資格がない。もしもそのような人が「居酒屋を愛している」なんて言った日には、居酒屋哲学者の私としては、ちょっと黙ってはいられない。居酒屋が”好き”ならばまだしも、”愛している”なんて、あんたねえ、いったい居酒屋の何がわかってるんですかと詰問したい。

居酒屋は酔っぱらって騒ぐだけの場所では決してない。語弊を恐れずに言えば、それは故郷(ふるさと)なのである。もちろん、その故郷に、たまには友人や恋人と帰るのもいいだろう。楽しく語り合いながら逍遥すればいい。しかし、それではたくさんのものを見落としてしまうのだ。ひとりでしみじみと、雰囲気、温度、店主、店員、集う人々、料理、酒その他もろもろを、身体全体を使って、五感あるいは第六感をも発揮して味わってこそ、居酒屋のなんたるかが理解されるのである。

カウンターの片隅に置いてあるわけのわからない木彫りの熊や、油にまみれてゴキブリ色のようになったビニールがかかった熊手、誰が描いたんだかよくわからないどっかの山の油絵、それから店主の雰囲気やしぐさ、お通しの内容、周囲の人々の酩酊度合や会話、声のトーンや抑揚、そういった微細なディティールをいちいち”発見”しながら酒を呑む、いや、”舐める”もしくは”ねぶる”、それが居酒屋なのだ。

神かけてここにはっきりと宣言しておくが、私は居酒屋を愛している。地球上には、一度は行くべきすばらしい場所がごまんとあるのだろうが、居酒屋に勝る場所はないと断言したい。居酒屋ののれんをくぐった瞬間、あるいは庄屋やさくら水産といったチェーン店でピンポンとかなんとか電子音で迎えられた瞬間、私の魂は激しくバイブレーションし始める。それは魂の歓喜の震えである。一日の終わりに行くところであるにも関わらず、ひょいと座席に腰かけた瞬間、ああ、”本当の”一日が始まったなあという気がするのだ。

おっと、しょっぱなから居酒屋哲学入門のハードルを上げ過ぎてしまったようだ。とにかくは、居酒屋に一人で行ったことがない、だけど居酒屋が好きだ、愛していると言いたいのだという人は、まずは一度、思い切って適当な居酒屋にひとり飛び込んでみてほしい。唐突だが、その方法をレクチャーしよう。

まずは3000円ほど用意されたい。贅沢を言えば4000円あるとなおよい。そうしたらば、居酒屋に行こう。できれば終電など気にしなくていい近所の居酒屋が望ましい。まあ、居酒屋ならチェーンでも個人経営でもどちらでもいい。むしろチェーン店のほうがマニュアル通りの対応で放っておいてくれるので気が楽かもしれない。しかし、いかにも高そうな店はやめたほうがいい。居酒屋は安くてうまいのが信条である。

居酒屋に着いたら、まずは引き戸を少し開けよう。のれんをくぐり、頭部だけを差し入れる。いわゆる「やってる?」のポーズである。店主が顔の前で手を振り満席だというような場合は、諦めて別の店を探そう。居酒屋に列を成すなどは愚の骨頂であるので、くれぐれもそのようなことがないよう肝に銘じておいていただきたい。

適当な客入りであることを確かめたらば、引き戸をご自分の身体が通れるくらいまで開いて、入店といこう。そうして、好みの座席に腰を下ろす。おしぼりが出てくるまでの間に、壁に貼ってあるメニューや店内の様子などを、頭部もしくは上半身をひねってぐるりと見回す。おしぼりを出される。顔をめちゃくちゃに拭き上げたい御仁もいるだろうが、あれはちょっと見ていて気持ちがいいものではないので、せいぜい小鼻をさっとぬぐう程度にとどめたい。注文を聞かれたら、即答で瓶ビールを頼もう。一杯目の注文からメニューを見るなど、無粋にもほどがあるというものだ。男は黙って瓶ビール。いや、女でも黙って瓶ビールなのである。

そもそもひとり酒に生ビールは似合わない。しっぽり瓶ビールが似合いなのだ。ほどなく瓶ビールと小さなグラスがちょこなんと置かれる。いそいそと左手にグラス、右手に瓶ビールを持つ。瓶がキリッと冷えているのが嬉しい。ここで小さくガッツポーズするのもいいだろう。しかしくれぐれもグラスやビール瓶を落としたりというそそうがないよう気をつけていただきたい。

それからとくとくと注ぐ。一息ついて、おもむろに口に運び、喉元深く流し込む。いや、ぶっかけるという勢いがほしい。この一杯によって、口から喉、食道、そして臓腑の一切が開かれるのだ。言うなれば”ご開帳”である。身体が「この夜、ようこそ!」と言っているのが感じられるだろう。もちろん、お店の側も「ようこそ!」と言ってくれているはずである。あとはもう、気の向くまま胃の向くまま存分に楽しんでいただきたい。くれぐれも節度は忘れずに。

駆け足でのレクチャーとなってしまったが、いかがだっただろうか。はからずも今日は華の金曜日である。程度の低い同僚、毎回似たりよったりの話ばかりの友人、ときめきもくそもなくなった恋人や伴侶なんて放っておいて、さあ、ただひとり、居酒屋というワンダーランドに出かけよう!

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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