機械の進化と人間のあしぶみ(テレビゲームの進化とプレイする人間の停滞)

  2017/08/22

時代がめくるめく変わろうとも、人間の頭の方はそう簡単に変わるものではない。

たとえば、1万5000年も前にラスコーの洞窟で壁画を描いた人と、現代の人との間にどれだけの違いがあるだろうか。少なくとも〈根本的〉な違いは何もない。相も変わらず、メシ食ってクソして寝るだけである。

話は変わるが、YouTubeで1980年代~90年代の、ファミコン全盛期のテレビゲームの動画を見た。私の幼年期はまさにファミコンとともにあったので、その懐かしさたるや実家で古いアルバムをめくるのにも匹敵するものがあった。

一通り見終わって、この動画についてのコメントを眺めていると、こんな書き込みを見つけた。

『この時代に生まれたかったわ』

書き込んだ人のプロフィールを調べたわけではないが、おそらくは平成の生まれであろう。それはともかく、ファミコンからスーパーファミコン、そしてプレイステーションまでの進化を目の当たりにしてきた人間としては、このコメントに非常な新鮮さを感じたのである。

なぜなら、現代のテレビゲームは、かつてのファミコンの比ではない。全然別物と言ってもいいくらいである。処理能力の面から見ても、ファミコンは8ビット機と言われていたが、その後またたく間にNINTENDO64に代表される64ビットにまで駆け上がり、今では128ビットとも256ビットとも、もはやそんな〈ビット〉なんてどうでもいいような、一般的なパソコンと大差ないかそれ以上の代物になってしまっている。

テレビゲーム自体の進化については説明の必要もないだろう。映画顔負けの美麗なグラフィックや音声は、もはやひとつの独立した〈アート〉とも言えるほどである。私が生まれて初めてやったテレビゲームの『ハリキリスタジアム』と比べればその差は歴然である。画面はごく荒いガタガタのドットで構成されており、それで表現力は甚だ乏しい。あるいは、それを『野球ゲーム』だと認識するには、〈ごっこ遊び〉のような想像力さえ必要と思われるほどだ。野球選手らしき点々から、ボールっぽい白い点が飛び出し、バッターらしき塊の茶色い棒がちょっと動くと、またプワーンと白い点が飛んでいって、雑音のような歓声が上がる。今思えば、一番クオリティが高くてよく出来ていたのは、ゲームソフトのパッケージのイラストだったような気さえする。

にも関わらず、『この時代に生まれたかったわ』という――。ふつうに考えれば首を傾げざるを得ないし、こっちこそ今の時代に生まれてすごいゲームがやってみたかったわという感じである。とはいえ、結局のところはどちらも一緒なのだろうと思う。

いくらテレビゲームが進化したとしても、人間の頭の方は何も変わっていないのだ。人間の感受するテレビゲームの興奮や感動そのものだけを取り上げて考えてみればわかるだろう。1980年代にファミコンで味わった感覚と、2010年代の今PS4やXboxで味わうそれとは、その表面的な隔絶に比べてあまりにも似通っている。もっと、同じだと言っても過言ではない。

なんて断言すると、おまえは最近のゲームなどまるきりしたことがないくせに、なぜそんなことが断言できるのかと反論される〈ゲーマー〉、あるいはテレビゲーム界における〈進化論信奉者〉の方もおられるかもしれない。しかし、人間の頭がそうそう変わるものではないことは、古今東西の小説、絵画、演劇、映画、いわゆる芸術の中の名作と呼ばれるもののひとつやふたつを取り上げてみれば十分に理解されることであろう。

未だに人間は食欲・性欲・睡眠欲の枠の中でしか生きていないのだ。そしてなお、恋愛に悩み、人を羨み、嫉妬に苦しみ、金銭に懊悩し、人生とはなんだと問い続け呻吟しているのである。喜びや感動にしても同様である。今や人工知能が小説さえ書き始めた暴力的なテクノロジーの進化を思えばこそ、我々の頭はあまりにも素朴ではないだろうか。

今も昔も、くだらないこと、取るに足りないことを日々ひとつひとつ泣き笑って生きている。ニーチェよろしく神は死んだという言葉が比喩でもなんでもないような恐るべき時代だからこそ、いっそう我々は我々の単純さを再認識し、そして素晴らしく純粋であることを尊ぶべきではないだろうか。

もちろん、人間の生み出すテクノロジーは我々の想像をはるかに超えて進歩してゆくだろうし、その伸びしろは無限とも言えるだろう。しかし、こと人間の感性や人間の在り方については、アダムとイブが知恵の実を食べた瞬間から完成していたのではないだろうか。

似たような毎日である。おもしろくもない毎日である。それで時に、こんな日々をわざわざ四苦八苦して繰り返す必要なんてあるのだろうかと考えたりもする。だけど、その地道で退屈な繰り返しの中にしか、人間の人間としての在り方は絶無なのだから、いちいち喜んで、いちいち怒って、いちいち哀しんで、いちいち楽しんで、そうして人間に生まれたからにはきっちり人間として往生するしかないのだろうと、私は思う。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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