誰かの子(父と呑んで思うこと)

  2017/08/22

普段、自分を〈誰かの子〉だと意識することはまずない。

しかし、自分の親と接する時には、必然的に意識にのぼらざるを得ない。そうして〈私はあなたの子〉なのだということに思いをはせるとき、ほとんど宗教めいた神秘的な気持ちにさせられるのは私だけだろうか。

というのも、父と呑んだのである。それはさておき、まずは各々の年齢を述べねばなるまい。親子関係というものは年齢によってめまぐるしく変化するものだからだ。父は御年67歳、私は来週で34歳になる。そういう位置関係である。

居酒屋のテーブル席に、父と向かい合って座った。生ビールで乾杯する。ひと息つくと、いつもは〈父〉という曖昧なイメージでしかない抽象的な存在が、白日の下にさらされるように、にわかに血肉を備えた具体的なディティールを持って立ち上がってくる。

髪の毛は総じて白くなり、瞼や口元の皮膚はだぶつくようにたるみ、顏の端々には薄く老斑が浮かび始めている。生ビールのジョッキをつかんでいる手の甲は、張りを失い細かく波打っていて、ちょうど〈ちりめん〉のように見える。眼鏡の奥に佇む小さな瞳は、笑っていてもどこかさびしげな濁りをふくんでうるんでいる。唯一その声だけが、もう永く変わりがないように思われて、ともすれば私は目を閉じてその声だけを耳にしていたいような気もする。

老いるとは、つくづく嫌なものだと私は思う。しかしその感慨は、そのまま自分にも跳ね返ってくる。父が老いたその分だけ、私もまた老いたのだということだ。それに、老いるとは死に近づくということでもある。自然、父はあと何年生きられるのだろうかと考える。同時に、私の人生も着実に終わりに向かって歩を進めていることを感じる。

父はきっと死ぬだろう。否、絶対に死ぬだろう。それがいつかはわからないが、絶対に死ぬことだけは完全にわかり切っている。そう思いながら交わす言葉には、どこか婉曲な歯切れの悪さがある。思っていることを言わないわけでも言えないわけでもないが、そこには友人とも恋人とも、同僚や目上の人とも違う独特の気遣いや遠慮がある。

努めてそのような接し方をしているわけではない。ただ、目の前には常に〈老いた父〉という厳然としたビジュアルが存在しており、それで私は終始〈老い=死〉という問題と対峙せざるを得ないのだ。

「ホッピーでも呑もうか」そう言って父は、いかにも調子が良さそうに言う。「おまえも呑むか?」――それに答えながら私は、元気でなによりだと思う。確かにそう思う。実に喜ばしいことだ。しかし、〈元気〉と〈老い〉とは別物である。嫌味ったらしい言い方ではあるが、その元気は〈歳の割には〉ということでしかない。いくら元気で、どれだけ朗らかな笑顔を見せてくれようとも、父の老いは、老いそれ自体としてはあくまでも強烈に主張することをやめない。むしろ逆に、よりいっそう、老いの老いたる所以のような寂しさ、虚しさをこそ引き立てるようにさえ思われる。例えるなら、乞食のような垢で真っ黒のすっかり歯が抜け落ちた男がにっこり笑いかけてきたとしたら、まず間違いなく好感よりもおぞましさを覚えるだろうことと似ている。

手放しで、ただ〈お父さん〉と呼ぶことのできる時代は終わったのだと思う。いつか単純に父の子としての理由なき愛着や、身勝手な無心の拠り所でしかなかった〈お父さん〉は、いまでは甚だ複雑な響きを帯びている。

父と面と向かって話していると、なんとはない哀しさがつきまとう。有意義であると思うし、楽しくないわけでもない。しかし――。誰しも死ぬ。だからこそ今こうやって過ごせることを大事に――そういう一般論は何の慰めにもならない。親の老いとは、子にとって誰の老いよりもリアルなものなのだと思う。もっと、他のどんな不幸や死よりも訴えかけてくる何かなのだ。だからこそ親の老いの徴のひとつひとつに気づくにつけ、私は自分自身を省みざるを得ない。すなわち、おまえはほんとうにそれでいいのか、と。

親の老いは私を動揺させる。例えば、「いつ結婚するのか」というような直接的な言葉以上に、自分の根底から激しく揺さぶられる。それは自己否定にも似て恐怖ですらある。願わくば、いっそお化け屋敷のように目をつぶって走り抜けてやり過ごしてしまいたい。しかし、決して目を逸らすべきではなく、むしろ括目すべきだということもわかっている。

今度、東京に行くから飲もう――そんな連絡がいつか途絶えて、そして訃報が届く日もそれほど遠い未来ではない。そう思うと、自分がいまここでこのように生きていることが、何かひどい過ちのようにも思われてくる。むろん、私の主張や弁解はいくらもあって、頑なでもある。しかし、ただ刻々と時間が、そして老いが追いかけてきて、いつか陳腐な言葉を弄する私の頭上をゆうに追い越していくだろう。その時、何がしかの後悔をするのではないか。その漠然とした不安は、今後増すことこそあれ、減じることはないだろう。――おれはおれの好きなように生きていく、無鉄砲でも無計画でも何が悪い、長男だからとか実家のことだとか、そんなことに興味はない――何も感じず鈍感で、何も考えずに阿呆でいることは、かくも難しいものだと思う。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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