スーパーマーケット哲学
スーパーが好きだ。なぜって、すべて気負わず買えるものばかりだから。給料日やなんかに手当たり次第カゴに放れば購買欲が満たされる。それに野菜をはじめ、肉や魚の値段が日々動くのもいい。あれは社会の窓でもあって、見飽きることがない。
店内を最低3周はする。その際のカゴの持ち方は昔から決まっている。ひじの内側にぶら下げてなかば抱きかかえる、いわゆる「夕飯なんにしようかしら」のおばちゃんスタイルである。野菜コーナーから始まり、レジまで行って、それからまた野菜コーナーに引き返してみたりする。
さて、ここまでは日本の話。しかしもちろん、シンガポールにもスーパーはある。だが、売っているものが違う。スーパーマーケットという業態のコンセプトこそ同じだが、長年日本のスーパーに慣れ親しんできた私からすれば似て非なるものだと言っても過言ではない。
まず、納豆がない。味噌もない。この時点で純日本人の私からすれば責任者出てこいレベルの憤懣である。それにめんつゆもなければ刺身もない。となれば言うまでもなく刺身じょうゆもない。
では何があるのか。英語だか中国語だかタミル語だかが舞い踊る、いかにもエキゾチックかつスパイシーな商品が所狭しと並んでいる。パッケージはだいたい赤黄あたりの原色だ。三つにひとつは「Hot!」と書いてあり、二つにひとつは「Spicy!」と書いてある。そして例外なく「Delicious!」と大書されており、ちょっとボキャブラリーの貧しさを感じなくもない。
正直、どれも同じに見える。だからなんとはないパッケージの印象で、当てずっぽうに手に取るしかない。そして一応日本でしていたように裏書きを見る。たとえば私は蛋白加水分解物や合成甘味料に気をつけていたのだが、当然すべて異国の言語で検討もつかない。かろうじて読み取れるのは「sodium(塩)」くらいのもので、あとは何がどれだけどのように入っているのか、そもそもどんな味でどのように使うのかすらわからない。
それでも真剣に、クレジットの明細書くらい真剣に見てみても、やっぱりどうにもわからない。だから諦めて、とどのつまり頼るは勘ばかりということになる。
そんな状況にあって、不意に「Nissin」や「Kikkoman」のロゴに出会うと、まるで遠く旅先でばったり知人に出くわしたような気持ちになる。嬉しいやら面倒くさいやら妙なテンションで、しかし体は前のめりになる。むろん、それらの商品とて日本語では書かれていないのだが、安心感は桁違いである。
それはちょうど、小学生のころ親友だった年上のUくんと、中学で再会した時の感覚に似ている。一年先に中学に上がったUくんは、すっかりグレて金髪になっていた。しかし私にとってUくんは、やはり仲良しのUくんのままなのであった。そうして相も変わらず彼を呼び捨てに親しげに話す私に、周りは当然のごとく引いていたが、それでも彼は私にとって気心の知れたいい奴だったのである。
いささか脱線した。とにかく、私のDNAレベルにまで刻み込まれているだろうそれら日本企業のロゴは、絶対的な信用を持っているのである。他言語の羅列で結局よくわからないことは変わりないにも関わらず、手放しで信用できてしまうのである。
それは食品に限らず、シャンプーの「Dove」や虫刺されの「ムヒ(無比と書いてあるが)」についても同様であった。知っているということは人に安心感をもたらすのである。
そこで私ははたと気がついた。これはまさに人の世界の捉え方そのものではないかと。つまり、我々は自分の知っているもの、わかっていることを頼りに世界を見るのである。人がしばしば知らないモノやコトに否定的な感情を抱くのはその典型であろう。刺青の人は悪い人、宗教は危ない、あるいは、無職やニートは働く気がない、等々。
逆に言えば、物事を知るということは、即、自身の世界観を拡大することなのだ。まったく「知識は翼」とはよく言ったものである。そうとわかれば話は早い。勘でもなんでも、私はひとつひとつ買って、試して、知っていけばいいのである。そうすれば、今はただ一切が怪しく、いかがわしく映じるこちらのスーパーも、いつか日本と同じとまではいかなくとも、少なくとも嫌いではなくなるに違いない。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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