さんまのかなしみ
べつにさんまが不漁で高いとかいう話をするのではない。明石家さんまの話である。
芸能の方に思い入れはないが、以下の記事を読んで考えさせるられるところがあったので書きたい。
「好きな芸人・嫌いな芸人2019」で、さんまが初めて「嫌いな芸人」で1位になってしまった (中略) ここ数年、さんまのテレビやラジオでの発言が世間の非難を浴びるケースが増えている。「いい彼氏ができたら仕事を辞めるのが女の幸せ」といった旧来の価値観の押し付けに思えるような発言や (中略) 性別非公表のものまねタレントのりんごちゃんに対して「りんごちゃんなんかは男やろ?」と詰め寄った。空気を察してヒロミがすかさず「りんごちゃんはね、そういうのないの、性別がないの」とフォローを入れると、さんまはそれでも納得せず「おっさんやないか、アホ、お前」と声を荒げた。 (中略) セクハラやパワハラに対する世の中の意識が変わり (中略) そんな時代に、さんまだけが旧態依然とした価値観にとらわれ、世の中の空気にそぐわない発言を連発している。
引用元:明石家さんま「老害化する笑いの天才」の限界(東洋経済オンライン)
さんまのことは嫌いではないが、納得してしまう。ただ、彼あたりの年代の男性なんて、程度の差こそあれそんなもんだろうと思う。しかし、ことはそう単純ではないのかもしれない。ビートたけしはさんまの芸をこう論ずる。
バラエティ番組の中で、素人でも誰でもどんな相手だろうときちんと面白くする。けれど、相手が科学者や専門家の場合、結局自分の得意なゾーンに引き込んでいくことはできるし、そこで笑いは取れる。でも、相手の土俵には立たないというか、アカデミックな話はほとんどできない。男と女が好いた惚れたとか、飯がウマいマズいとか、実生活に基づいた話はバツグンにうまいけど。(ビートたけし著『バカ論』新潮新書)
引用元:明石家さんま「老害化する笑いの天才」の限界(東洋経済オンライン)
彼の芸のなんたるかについてなど考えたこともなかった私は、素直にうならされた。で、早速この「バカ論」を買って読んでみると続きがあった。
トークに関して大天才なのは認める。けれど、例えば数学者と話す場合、その笑いのキーがどこにあるのかわからない。数学者の外見や私生活、奥さんの話を突っ込んで、そこから話を膨らませるのは上手いけど、数学そのものの話はできないから。これでもっと教養があればと、惜しいと思う時がある。だからさんまは、「教養なき天才」ということ。
引用元:バカ論(新潮新書)ビートたけし
こう鮮やかに分析されると、ビートたけしとさんま、その二人の教養の差が浮かび上がるようだ。先の記事は、彼をこう総括する。
さんまの何でも笑いに変える話術はすばらしいものであり、彼自身が何も持たない若手の頃にはそれがとくに魅力的に見えていた。だが、さんまは現在64歳である。共演するほとんどのタレントが自分より年下だ。年配の人間が、一回りも二回りも年下の相手に対して、一切聞く耳を持たないという頑固な態度を取っていれば、印象が悪く見えるのも無理はない。
引用元:明石家さんま「老害化する笑いの天才」の限界(東洋経済オンライン)
これを読んで、私はやるせない気持ちになった。なぜなら、彼は変わらずクオリティの高い仕事を続けている。にも関わらず、評価が変わる。これは考えるだに恐ろしいことではないだろうか。
日本では、しばしば「変わらない」ことが尊ばれる。だが、ダーウィンの進化論は、強者生存ではなく適者生存であることを明らかにした。変化しないことは、すなわち没落を意味する。「転石苔むさず」ということわざが、日本と西洋では真逆の意味で使われているのはよく知られるところである。
時代が変わったというのはやさしい。しかし時代の変化とは、昨日今日の自分の老いを認識できないのと同じで、よくよく注意していてもなおとらえがたいものなのだ。それでいつの時代も――偉人だろうが馬鹿だろうが――誰かしら時代に取り残される。
周りの評価が変わり始めたのはその兆しだろう。彼のズレはまだ小さいが、強く光を浴びているだけに、その影は深い。それが私の目にかなしい。
ことに芸人なんていう人を笑わせる仕事だから、それが空回るさまは、それこそ笑うに笑えない。
確かに、彼に教養があれば違ったのかもしれない。LGBTなんかの問題は、無知イコール悪になってしまうようなところがある。いまでもオカマやホモなどと平気で言う人は少なくないが、それは場末の酒場あたりでだけ許される話であって、すでにテレビではアウトなのだ。
そういうことは、単純に知っているかいないかという知識の話だろう。であれば誰でも学ぶことはできるわけで、いったん学べば頭の回転の早い彼のことだ、巧みに地雷をくぐり抜け、万人に爽やかな笑いに変えることもできるはずだ。しかし、それができないということが、まさに教養のなさを証明しているのかもしれない。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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