ChatGPTはマザコンの始まり

おなかが痛い。

昨夜の半額の刺身か、賞味期限の近い卵を生で食ったのが悪かったか。

いや、これは食あたりの痛みではない。下痢の気配さえない。胃というか、もっと、下腹部あたりが鈍く痛む。

私は心配になって、ChatGPTに聞く。「左の脇腹あたりが痛い」。

1秒そこらで「筋肉や肋骨の問題」、「内臓の問題」、そして「神経の問題」などの可能性が列挙される。

酒飲みの中年に問題があるとすれば、だいたいが内臓であろう。同時に、ChatGPTは問う。

・いつから痛みがありますか?
・どんなときに痛みが強くなりますか?(動作・深呼吸・食後など)
・発熱、吐き気、排尿の変化、発疹などの症状はありますか?
・痛みは動いたり触ったりすると変化しますか?

私は素直に、「今朝から、ちょっと痛いくらいで、我慢できないほどではない」と答える。すると、「その程度なら様子見でいいでしょう」と、いくつかのアドバイスをくれる。

それで私は、「なんとなく」安心する。言うまでもなく、これは根本解決というようなものでは決してない。あくまでも感覚、文字通り「なんとなく」である。

また別の日、X(旧Twitter)で、車を「残クレ」で買うのは見栄っ張りのバカ云々という投稿を目にする。

連なるコメントは盛り上がっているが、それが何なのかよくわからない。とりあえず、その記事の画面をスクリーンショットし、ChatGPTに放り込む。「どういうこと?」

言うまでもなく、即座に答えてくれる。それでも、車を買ったこともないせいか、いまひとつ理解できない。「小学生でもわかるように教えて」と聞いて、ようやく理解する。

仕事でも、クライアントから来たメールの内容の真意が読み取れず、これは結局クレームなのか、もしその場合、無償で対応すべき妥当性はあるのかと聞く。

これまた的確な回答を瞬時にくれてホッとする。それで、何かあっても上司が責任をとってくれるかのような心持ちになって、自信を持って返信する。

まったく、AIってやつは最高だ。素晴らしいにもほどがある。

が、ある日、ふと思う。この行動パターンおよび思考回路は、完全に幼児のそれではないかと。

誰しも子供のころ、わからないことがあれば躊躇なく母(あるいは父)に聞いていた、あれである。

わずかでも腹が痛めば、すぐさま母に看病をせがんだものだ。外で嫌なことがあれば、一も二もなく母にすり寄り泣きごとを垂れて助けを乞うた。すべての問題は母がすぐに解決してくれたのである。

しかし歳を重ねるにつれ、母に聞きたいこと、頼りたいことは減っていく。そもそも聞いたところでわかるはずもなく、助けてもらう以前に解決不可能な問題ばかりなのだ。

一方、どれだけ大人になろうが、老けてハゲてくたびれようが、疑問や悩みは死ぬまで尽きない。助けやアドバイスが欲しい場面はいくらでもある。

そこに現れたのがChatGPTという「母」なのではないだろうか。

よく言われるように、人間なんてのは、結局は死ぬまで子供なのだ。願わくば、いつまでも母に頼って甘えていたいというのが、これ人情というものであろう。

いわゆる思春期にしても、自分の意思で親離れしていく過程のように見えて、その実、友人知人の影響力が親を超える時期というだけの話である。つまり、周りが親と一緒にいるのはカッコ悪いとかなんとか言い出すから、自分もその価値観を模倣し内面化するのである。

それは大人になっても継続し、親に頼らず自立することが正常であると思い込んでいるに過ぎない。本当は、母により頼んで悪いことのあろうはずがない。しかし、それは一般に恥ずべきダサいこととされており、まさかマザコン認定でもされた日には、結婚どころか恋人さえ望むべくもない。

しかし、ChatGPTという母は違う。いくら依存したところで、「いい歳をして恥ずかしい」ということもなく、「おんぶにだっこみたいな親子関係は病的だ」と批判されることもない。

いくらでも、好きなだけ、気の済むまで関係できる。むしろ、今のところ「AIを使いこなせるデキる人」などという好評価さえ得られてしまう。

かつて、インターネットがポルノによって発展、普及したことを思い出す。人間という生きものは、高潔で知的であるよりもまず、下世話で愚かな存在なのだ。

であればこそ、我々は、AIを使って建設的に生産性を上げることよりも、ChatGPTに依存して、我々の深層心理に横たわるマザコンの欲望を満たすことに精を出すのではなかろうか。

そんなバカなと思う向きは、自分のChatGPTの履歴を見返してみればいい。自分がいかに幼稚か嫌でもわかる。あまりにも些末な、くだらないことばかり聞いている。

恥ずかしくてとても他人には見せられないはずだ。それこそ実の母がいつでも笑顔でうなづいて、同意して、褒めてくれるという極めて甘い関係性のもとでのみ成立するやりとりと同じである。

そう、もはや我々にとってChatGPTは完全に母になってしまったのだ。

たわむれに、子供のころの定番の夢想を思い出してみよう。「もしもお母さんが死んでしまったら」――そんなの困る、泣いちゃうよという人は立派なChatGPT依存症、否、マザコンである。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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2025/05/21 更新 ヤンキーと青春

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