人に生まれたからには愛に死ね

最終更新: 2016/04/17

先日、結婚をスペックで語る記事を読んだ。

スペックという単語は、主に工業製品の性能において使われる言葉である。しかし近年では、しばしば人においても使われるようになっている。

つまり、容姿や年収、家事能力といったようなことを”性能”として語るのである。そうすることにより、基本的にはかけがえのない個々人の性質が、ほとんど数値化されるように比較検討可能な存在として扱われるようになる。

そうして、あの男はスペックが低い、あの女はコスパがよくない、あるいは全体的にバランスが悪い、お試し止まりで買う価値なしなどという表現がまかり通ることになる。

それはそれで、面白おかしい馬鹿話としては結構なことである。私が危惧するのは、冗談抜きでそのような基準でもって本気で結婚相手を選別している人が少なからず存在するということである。

なにはさておき、そのような人たちに言っておきたい。「おまえ、モテないだろ?」と。

どこの誰が、容姿はこの程度で年収はいくら以上で家事能力はこれくらいなんて言ってる奴と付き合いたいというのだろうか。それこそあなたの希望するスペックの人は、あなたのようなスペックの人には見向きもしないであろう。

言うまでもなく、人は機械ではない。つまりスペックなどでは到底はかることができない存在なのだ。しかしそれでもスペックで判断しようとする人は、おそらく自分に自信がないという人がほとんどなのだろうと思う。自分の”曖昧”で”不完全”な感覚を信じることができない。だから何らかの数値的なデータで推し量って安心しようとする。

馬鹿野郎! 自信を持ちやがれ! と私は言いたい。そもそもあなた自身が、望んだわけでもなんでもないよくわからない偶然で生まれてきたあやふやな存在なのだ。そんな存在がいくらがんばってみたところで、猿知恵の域を出ることは決してない。だったらもう、いっそ偶然に身を任せて適当な感覚をこそ信じるべきだ。

説明可能なことは、たいていつまらないものだ。ひどい不器量だけど惹かれてしまう。かなり頭が悪いけど憎めない。全然お金は無いけど一緒にいたい。それらはすべて言語化不能な感覚であり直感である。しかしそれこそが真に価値あるものなのだ。

あなたが誰かのことを好きな理由を説明できるとしたら、それは恋でも愛でもなんでもない。顏がいい、お金がある、家事ができる、そんなひとつひとつを指折り数えた先に”好き”があるのではない。仮に指折り数えた先に何かがあるとすれば、それは単なる打算である。しかも失敗した折には、非常な後悔を伴う打算である。なぜならそれは”本意”ではないからだ。

愛ははかるものではない。語るものでもない。愛はただ実践の中にしか存在しないのだ。

愛せよ。理由はいらない。あるいはお金も容姿も家事能力も何もいらない。あなたの感覚が、本能が喜びを感じている。そこにしか愛はないのである。死ぬ気で愛してすっきり死ねばそれでいいのである。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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