オランダの衛生観念

最終更新: 2025/04/07

ある日、行きつけのバーを訪れると、イベントの飾りつけをしていた。

聞けば、誰かの50歳の誕生日パーティがあるという。

店員のひとりが椅子の上に立ち、金地に「50」と書かれた旗を天井に張り巡らせている(ペナントガーランドというらしい)。

私はビールを飲みながら、その様子を眺めるともなく眺める。

ふと、店員の足元に目が留まる。土足で客の座る椅子に立っているのだ。

まともな日本人なら反射的に靴を脱げと言いたくなる。が、彼女はいっこうに意に介す様子もない。

これが客のいない時に限ったテキトーな態度だというならまだわかる。

人は他人の目がないところでは、簡単にゲスになる生き物だからである。

しかし、目の前に私がいる。もっと、凝視している。態度からして、初犯ではない。常習犯だ。

この不遜な行為、日本なら、とっくの昔にクチコミサイトに投稿され、ボロクソ書かれているに違いない。

しかし、この店の評価はレビューが268件もついているのに、驚異の4.8なのである。

つまり、誰もそんなことは気にしていないということだ。

他の店でも見た。店員ではなくオーナーが、常連客といかにも楽しげに歓談していた。

ふと、オーナーが立ち上がる。自分が座っていた椅子に高く足をかけ、靴ひもを結び直して、また着席した。

私は理解した。土足で汚れた椅子に自分で座るということは、そもそも汚いと思っていないのだ。

こんな話を思い出す。19世紀のヨーロッパでは、出産後に高熱で死ぬ「産褥熱」が多発していた。

ある医師が、試しに術前に手を洗うルールを作った。すると、死亡率は激減した。

成果に反し、当時の医学界では、「手洗いごときで病気が防げるわけがない」と猛反発されたという。

目に見えない神の存在を信じ、血を流すことも厭わなかった西洋人が、目に見えない細菌の存在は信じられなかったのだと考えると興味深い。

実際、ヨーロッパの人で帰宅後や食前に手を洗う習慣のある人は多くない。

しかし、潔癖な私は想像する。

その靴で、街を歩き回っているのはもちろん、トイレに行き、誰かのこぼした小便のしずく、なんなら糞便のひとつも踏みつけているはずだろうと。

私はビールを飲み干して、おかわりをする。

彼女は空になったグラスを受け取って、カウンターの奥、水が溜められ洗い桶のようになっているシンクに直接グラスをつっこむ。

シンクの水の中には、棒状のタワシが二つほど立っており、そこにグラスをずぼずぼ二、三度上下させて洗う。

その水には洗剤が加えられているものの、ほとんど循環はしていない。たまに水が足される程度である。

あの客、この客、みんなのグラスが、下洗いもなくダイレクトに突っ込まれ、ぐちゃぐちゃ混ざり合って洗われる。

ふたたび私は想像する。

水中、誰かの口紅やリップクリーム、唾液、食べかす、歯クソ、あらゆる汚物が漂っているさまを。

洗われたグラスは、すすがれることもない。洗剤の泡がしたたるグラスが平然と供される。

断っておくが、この店だけの不衛生なシステムというわけではない。これが、多くのオランダのバーのデフォルト仕様なのである。

土足の件は百歩ゆずっても、この文化は日本人にはおよそ受け入れがたい。

ある時、どうにも気になり、その洗い方について尋ねてみた。

ええと、なんというか、その水はちょっと、汚くないですか? それに、グラスに洗剤が残ってるのも、身体によくないのでは。

答えは単純で、「そんなこと、考えたこともなかったわ」。

以来、私も考えるのはやめた。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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