差別する心は恋心にも似て
2017/08/22
人はなぜ差別するのだろうかと思っていた。とりわけ黒人差別の歴史などを見ると、その思いはほとんど子供のように純粋なハテナとなった。
血も涙もある同じ人間ではないか。いっそ歯が抜け落ちかねない、いかにもな綺麗ごとではあるが、しかし、これは揺るぎない真理である。
私は差別しない。そう漠然と思い込んでいた。むろん、根拠はない。信念のようなものもない。だからだろうか、それはシンガポールに住み始めて半年で脆くも崩れ去った。
生活の一部として黒人と接していると、彼らの身なり振る舞いを嫌でも目にすることになる。
彼らはよく、地べたに座り車座になって話し込んでいる。また、その身なりは往々にして、油で煮しめたような清潔とは言いがたい色をしている。さらには、彼らの体臭はしばしば私の鼻をねじ曲げる。
むろん、それらは文化でもあろうし人種的なアイデンティティでもあろう。だから、それをどうにかしろと言う気もなければ、するべきだとも思わない。しかし、そのような経験を日常的に繰り返す中で、私は自然と彼らを避けるようになっていることを告白しなければならない。
たとえば電車を待つ時、私は黒人の並ぶ列を避ける。なぜなら、わざわざ自ら臭くて不快な思いをしに行く必要があるだろうか。これは正論だ。しかしその反面、これこそ差別の芽であって、それも太く高く育つであろう芽であろうとも思うのだ。
おそらく、日本に住み続けていたとすれば、このような差別心が芽生えることはついに死ぬまでなかったろう。なぜならかつての私にとって、黒人というのはあくまでも単なる机上の概念であって、実体ではなかったからだ。
それはどうして恋心にも似ている。恋とは、その人自身よりもなお、その人のイメージを愛するものである。だから、恋はしばしば結婚によって終止符を打たれる。彼女のイメージは実体になり、生活になり、ついに空気となるからである。
いつか何かで、人種によって差別するのではなく区別をするべきだというような主張を読んだ。生活スタイルも思想も違うのだから、地域を区切って住み分けたほうがうまくいくというのである。
それこそ部落のやり方そのものではないかとかつては憤りさえ感じたものだが、今は正直なところ、賛同とまでは行かないが、少なからず正当性を認めたい。
よく、子供向けのイラストなんかで、白人黒人黄色人種が手をつないで輪になっているのがある。あれは確かにとても美しい光景であり、理想の世界であろうと思う。しかし、それがいつの日にか、この地上にあまねく実現する日が来るかどうかと言えば、絶望的だと、私は思う。
戦争が無くなることがないのと同じで、必要悪なのかもしれない。いや、私は汚なくても臭くても問題ない、人類皆兄弟を身をもって実践するのだというのであれば、むろん私は惜しみない拍手と賛辞を送る。しかし、私はどうやら〈人並みに〉差別をしながら生きていくしかなさそうだというのが、偽らざる実感である。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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