酔っ払いの酔っ払いによる酔っ払いのための話。

最終更新: 2017/08/22

酩酊している。現在、2014年6月17日の1時49分、の火曜日。言うまでもなく、昨日から呑んでいる。21時くらいから。

そんな状態であるので、今日のところはさっさと寝て明日という日に備えればよさそうなものだが、もう、今日はそういう日ではない。明日だってもう、どうでもいい。いま、今、この瞬間がすべてである、というテンションになってしまったから、明日のことなんて、くそくらえというか、知ったことか、つーか、死ね。

汚い言葉を吐いてしまい、失礼いたしました。なにかしらを言いたくなったので、こうしてわざわざパソコンを立ち上げたわけである。

しかし、なにかしら言いたいのだが、それをうまく並べ立てる頭が、今は無い。ああ、人に何かを伝えるには、頭が必要なのだなと、いまさらながら思う。

まあ、そんなこんなは、ほんとうにどうでもいいが、最近のマイブームは鴨長明である。

そう、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」とかいうやつである。

声に出して、つまり音読して、暗記しようと何度も読んでみているのだが、読めば読むほど、なんとすばらしい文章だろうかと思う。これぞ人生、いやもっと、この世の真理の言葉、たとえば色即是空にも匹敵する文章だと、思う。

さあ、愚鈍な諸君、今一度、心して読んでみようではないか。方丈記の序文をば。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。

あるいは去年焼けて今年作れり。

あるいは大家滅びて小家となる。

住む人もこれに同じ。

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。

また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。

あるいは露落ちて花残れり。

残るといへども朝日に枯れぬ。

あるいは花しぼみて露なほ消えず。

消えずといへども夕べを待つことなし。』

この世のなんたるかということを考えるに当たって、これ以上の表現があるだろうかと思う。まったく、過不足無く、何も言うことはない。わたしはこの文章を読んで、ただひたすらに、私の祖母が池田大作先生に向かって頭を空にして、あるいはスポンジ状にして、南無妙法蓮華経と朝晩唱えるのと同様、またはそれ以上の気持ちで、この文章を読む。読める。詠めるのである。

どうでもいいけど、死ねよ。あ、口が滑った。もっと、もっと、もっと、死を思えよ屑。メメント・モリだろ馬鹿野朗。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

いろいろ、いろいろ、いろいろが、もう違う。全然違う。何もかもが、もう違う。どこかにいった。行った。逝った。くそったれ。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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