繋がる、千切れる、facebook

最終更新: 2017/08/22

facebookはねずみ講のようなものである。友達の友達の友達の、と、どこまでも繋がってゆく。世界中のみんなと友達になれるとかいう美談ではなく、ほんとうに無駄に、やたらめったら繋がってゆく。

六次の隔たりというやつである。『人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになることができる(Wikipedia参照)』。それが六次の隔たり。エイズの啓発広告でも似たようなことを言っていた。元彼の元カノを知っていますかとかなんとかいうやつ。

よくも悪くも、人と人とは繋がっている。

今朝、facebookを見ていて、初めて中学校の時の同級生を見つけた。ぼくはもう、facebookは3年くらいはやっていると思うのだが、しかし、今までただの一人も小中高を過ごした広島の友達と繋がらなかったのである。

その子は中学の時の同級生で、同じ班だった。確か、中学一年の3学期くらいから転校してきた女の子だ。

彼女のタイムラインを辿ると、子供がいて、出産があって、結婚があった。本当にあの子かなあとも思ったが、子供の顔を見て、確信した。ついでに、遺伝子の存在も確信した。

広島をこき下ろしてきたぼくではあるが、なんだかんだ、ぼくは嬉しくなって、思わず友達申請を出した。

それから、彼女の友達を辿ってみた。すると、またしても懐かしい名前を見つけて、ほとんど反射的に友達申請を出した。

なんだか夢中になって、友達の友達を掘り下げていった。掘り下げれば掘り下げるほど、あまりにも懐かしい名前が並んでいて、ちょっと、いや、かなり、時を忘れた。

バスケットのうまかったあいつ、いわゆる暴走族だったあいつ、なんかいつも不良グループの金魚の糞みたいだったあいつ。まあ、いろんな懐かしい奴らがいた。いかにも地方らしく、女の子のだいたいは結婚をしていて、男のだいたいはくたびれたおっさんになっていた。というのはぼくの印象で、いや、それにしても、あまりにもベタに、不良だった奴が土方をやっているのには笑った。やっぱり、バカだとそうならざるを得ないのか、なんて思ったりして、いや、ほんとうは笑えないのだが。

ぼんやり、ぼんやり、ぼんやりと、しかし、深く深く掘り下げて行っていると、とある画像に行き当たった。「今日は五中の同級生で忘年会です!」とかなんとかで、20人ほどが写っていた。五中とは、五日市中学校のことで、ぼくの出身中学である。ちなみに、陸上の為末大と同じ中学校である、という、どうでもいいローカルネタを挟ませていただいたりして。

それはともかく、その画像には、ぼくのよく知っている、とてもよく覚えている面々が納まっていた。ぼくも”五中の同級生”ではあるのだが、もちろんぼくはそこには居ない。というか、今の今まで、ただの一度も同窓会はおろか、他のあらゆる集まりに誘われたことがないのであった。

まあそれは、ぼくのいつもの広島に友達居ません自慢でもあるのだが、しかし、ぼくはそこにどうしようもなく居られなかったんだなということを、しみじみと感じた。

それから、そこにぼくは居ないんだけれども、ちゃんと別のところに自分の居場所を見つけてそれなりに楽しくやっているということに、心から安堵した。

ぼくがその写真を見て感じたのは、懐かしさよりも先に、忌避感であった。そして嫌悪感、もっと、恐怖感も混ざっていた。

いい思い出がない。とはいえ、特に、これといって問題にするほど、中高生のころにいじめられていたというわけでもない。しかし、ぼくはもともと自己愛と、それに伴う被害者意識が強い人間なので、実害のあるなしに関わらず、とにかくは虐げられていたという感覚と記憶が、今も濃く残っているのだと思う。

どうにか大人らしい表現をすれば、ぼくと彼らとは”合わなかった”のだと思う。

そんなこんなを思いながらも、友達の友達の友達のと辿り続けた。そうして、懐かしい彼ら彼女らの今現在を覗き見していくうちに、どうしようもない距離感を覚えてしまったのだった。

なんというか、どう考えても、絶対、仲良くなれないだろうなあ、という。たとえば今、会ったとして、話すことなんてないだろうなあ、という。

もちろん、ぼくに嫌な思い出を残している人間ばかりではない。中には、実に好ましい、あるいは愛おしい記憶とともにfacebook上で再会できた奴もいる。ぼくも一応は心ある人の子であるので、とっさに月並みな言葉、たとえば「○○、変わらないなあ」とか、「元気そうでなによりだよ」なんてことを思うし、メッセージを送りたくなったりもした。

だけど、到底埋めることのできないだろう距離感が、ぼくにそのような茶番的な振る舞いを許さないのであった。

なにか、見てはいけないものを見てしまったような気がする。あるいは、ずっと断絶したまま、何も知らないままのほうがよかったような気がする。

と、ハッとして、先ほど友達申請を送ってしまったことに焦りを覚える。気軽に友達申請をしたものの、それは、その個人とつながるというよりも、その個人を含むネットワークと繋がるということなのだ。

ぼくは慌てて、先ほど送った友達申請のリクエストを取り消した。広島の、母校の中学の同級生その周辺のネットワークと接続すること。それは、ぼくにとってはどう控えめに考えても、マイナスの方が大きい。少なくとも今は、そうとしか思えなかった。

「○○、変わらないなあ」の次は、何をしゃべればいいんだろう。「元気そうでなによりだよ」と言って、何と返ってくるんだろう。おれのことなんてどうでもいいだろうし、こっちはこっちで、おまえのことなんてどうでもいいし、お互い、生きてようが死んでようが、それぞれ楽しくやってんだよ。関係ないんだよ。全然。

全然、関係ない。なんて、完全に悟ってはいるんだけれども、好奇心というか、怖いもの見たさというか、ぼくとはすれ違って遠くかすんだ彼ら彼女のその後には、抗いがたい興味があって、何時間もしつこく辿ってしまう。

すると、いつか同じクラスだったやつの居住地が神奈川県川崎市だったりして、マジで!おれずっと登戸住んでたよ!すれ違ったりとかしてるかもしれないじゃん!とか思ったりして、でも、逆に、業とか縁とか、そういうものを強く感じたりもしてしまう。

そう、袖すり合うも他生の縁というやつなのだが、どうやらぼくには、彼らや、彼女らとは、ほんとうに縁が無いらしい。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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