自由な国の不自由な芸術/不自由な国の自由な芸術
2020/07/18
先日、ロサンゼルス近郊のとある学校で、このような絵を見た。
聞けばアメリカの1st Grade(小学一年)と5th Grade(小学五年)の子供の絵であった。それはともかく妙な色づかいだと思っていると、画像中央にある説明を読んで驚いた。
以下、原文ママを転載する。
Pablo Picasso's Blue Period
Pablo Picasso's Blue Period refers to a series of paintings in which the color blue dominated his work. Between 1901 and 1904 in painted essentially monochromatic paintings in shades of blue and blue green.
Students in 1st and 5th grade class used watercolors in blue and green tones to replicate Pablo Picasso's style of art. His work produced during that time period now have become some of his most popular works of art.
1st & 5th Grade
つまるところ、ピカソの青の時代*の作風で描けというのである。美大生の課題ではない。小学生に、である。
*(ピカソは)親友のカサジェマスを自殺で失ったことをきっかけに、社会の底辺に生きる人々を青い色調を主調色に描くようになります。この時期のスタイルは「青の時代」と呼ばれています。 (ポーラ美術館公式サイトより)https://www.polamuseum.or.jp/collection/highlights3/
日本の美術教育しか受けたことのない私にとって、これは衝撃であった。なぜなら日本における美術教育の基本は、一言でいえば「自由にのびのびと」だからである。まさか自由の国アメリカの美術教育が、かように不自由とも思われる「型」を与えるとはにわかには信じられなかった。
しかし、それで納得もした。だからアメリカは世界をリードする芸術家を輩出し続けて、一方、日本の芸術家はいつまでも国内のドメスティックな評価にとどまるのかが。
考えてもみてほしい。天地左右もわからない子供に「自由に描け」などということは、もはや教育ではなく教育の放棄なのだ。こと芸術以外のことに関しては過剰なまでに「型」を重んじる日本人が、なぜか芸術にだけは自由を求めるのである。
それは長じて芸術家を志すような子供にまで重大な影響を及ぼす。彼らは言う。「作品の説明よりもただ感じてほしい」、「自分の思いをぶつけたい」、「自由な表現がしたい」云々。
この手の主張・思い(コンセプトではない)は、世界どころか誰にも通用しない。当たり前だ。私はあなたのことなんか何も知らないのに、おいそれと感じられるわけがない。そんな意味不明の思いをぶつけて取り合ってくれるのは、せいぜい親か恋人くらいのものである。そもそもこの世に「自由な表現」などというものはない。いかなる傑作も時代や状況、国や言語その他もろもろの制約から自由ではあり得ない。仮にあなたが真に「自由な表現」を達成したとすれば、それは見事にあなた以外ただの一人も理解できない作品だ。おめでとう、誰も評価しないというかできるわけないよ。
日本にはこのタイプの芸術家が多い。あるいは画家・山下清のフィクションである「裸の大将」の影響かもしれない。ふらふらして世間知らずなこと言っておにぎり食ってりゃいいんだったら誰でもそうしたい。それは冗談としても、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」なんていう名言(迷言)が日本人にとって芸術の代名詞になってしまったことが、日本の芸術家にとって最大の不幸と思う。いきおい、「芸術をやる=自由になる」ことだと勘違いしているのだ。
言うまでもなく、この世に自由な職業などただのひとつもない。それぞれの職業に、それぞれ独自のしがらみと制約があるだけだ。そもそも自由とは、ルール(制約)あってこそなのだ。そのルールを知らずして、自由も何もない。それを不自由だと考えるのだとすれば、あなたはこの世界で何者にもなれない。どこに手を洗うことを「不自由」だと思う寿司屋がいるだろうか。どこにバットしか使えないことを「不自由」だと思う野球選手がいるだろうか。芸術家とて同じである。決してなんでもありではなく、ルールがある。そのルールのうえに、跳躍も創造も、そして自由もある。
ようやくで冒頭のアメリカの子供の絵に戻ろう。幼少のころからピカソの青の時代など、美術の基本の「型」を学びながら育った子供はどうなるか。かたや、美術は自由であり「型」になんかはめることはできないのだと教えられて育った子供はどうなるか。
ルールを知らず、自由ばかりを主張するのは、それこそ青い反抗期のガキである。私は日本の芸術家は、自由からの逃走よろしく、現実からの逃走がその本質なのだと思う。尾崎豊の「15の夜」にある、バイクを盗んで走り出すあの若者こそが、日本の典型的な芸術家像なのだと言えば言い過ぎだろうか。しかしあの歌詞には、世に簡単には理解されたくないくせに死ぬほど認められたいと苦悶する芸術家の悲哀と不思議なほど重なるものがある。
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま 暗い夜の帳りの中へ 誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に 自由になれた気がした 15の夜
目を覚ませ。バイクを盗めば捕まるだけだ。自由な瞬間はあまりにも短く儚い。金も早晩底をつく。だから、家に帰って勉強しよう。そして立派な大人になろう。たとえ芸術家にはなれなくても。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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