悟ってはみたけれど

最終更新: 2017/08/22

最近とみに、もはや我が人生においてこれといってやるべきことはないと思う。人間という生き物に生まれついて味わえることと言えば、もうすっかり一通りやってしまった感がある。換言すれば、それはひとつの「悟り」だとも言える。

「さとり世代」という言葉がある。1980年代半ば以降に生まれ、物心ついた頃にはすでに物質的に満たされており、概して欲がないことを特徴とする世代を指す。

そういえば、ひと昔前には「しらけ世代」というのもあった。しらけて、そして悟ってと考えると、なるほど、人間成長するものだと感心する。

それはともかく、悟りと言えば釈迦である。ご存じのように彼は悟った。そしてブッダ(真理に目覚めた人)になった。つまり、さとり世代とは「ブッダ世代」だと言って言えなくもないわけである。

冗談を言うのではない。彼らは確かに悟っていて、ブッダなのだ。それを若さゆえの早計さであって、しょせん浅いのだと切って捨てるのは、それこそ浅薄である。ちょっと考えてみれば、彼らは驚くほど釈迦と似かよった道程を歩んでいることがわかる。

釈迦は王族の生まれである。その時代にありえた最上の生活を送り、何不自由なく育った、いわゆる温室育ちである。しかしある日、外界を目の当たりにする。そして人間は何をどうしようが、老い、病み、死ぬにも関わらず、それでもなお生きなければならないことを知る。例の生老病死である。

そして王族を捨て、出家して悟りへの道を歩み始めるのだが、これはそっくりそのまま現代の若者の典型的な成長過程ではないだろうか。すなわち、幼年時代の彼らの生活は、釈迦の時代の比ではない快適さで、日々は至れり尽くせりで余すところがない。そして年頃になれば嫌でもテレビやネットで世にある無数の悲惨、無限の不条理と対峙させられる。成人して現実社会に出ればなおのことであろう。そのとき、自分の送ってきた生活がいったいどのようなもので、これからの人生をどう生くべきかと考えるのは必然ではないだろうか。

そうして彼らは悟る。この世の虚しさ儚さを十全に知っているからこそ、なにごとにつけても過ぎることがない。それは釈迦の教えの真髄である中庸そのものである。気性は穏やか従順で、勉学良好、夢は淡く見、現実を濃く、ささやかな趣味に、ほどよい恋愛、飲む打つ買うには縁がなく、モノは少しで満ち足りて、仕事はほどほど、給与もそこそこ、日々はまあまあ、老後の身の上なども抜かりなく、そして、つつがなく生きる。

そこで彼らに前時代的な若者らしい情熱や野心、夢や希望を求めるのはお門違いであろう。仮にあなたが若き日の釈迦に邂逅したとして、彼にそんな俗世の「くだらないもの」を求めるだろうか? 悟りに至る前のブッダとて、微笑してかわすに違いない。

だから現代、日本には千の、万のブッダがいるのだと思う。むしろいないのは馬鹿者のほうであって、さすがのブッダといえど教え導く愚か者がいなければただの人、よって彼らは日がな黙して微笑むほかないのである。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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