大人のさびしさ
2017/08/22
幼いころにはお母さん。思春期には友人。そして大人になれば恋人あるいは妻。それぞれの時期に必要とし、求め欲する対象がある。
それはそうなのだが、しかし、その内実は同じではない。むしろ全然違う。たとえば幼時に母が居なくなることは、ほとんどイコールで世界の終わりであった。思春期の友人の言動は自身を打ちのめしもすれば天にも昇らせた。つまるところそれは依存で、いっそ恋愛にも似て狂気をはらんで濃密であった。
大人になって惚れた腫れたの果てに恋愛が熟し、かつての恋人は妻になる。安定し、不安が消えると同時に情熱もまた消え失せる。そして人生そのものがひとつの日常になる。落ち着いた、穏やかな日々が訪れる。それはいまだかつて経験したことのない静けさである。
上でも下でもない、白でも黒でもない、どこまでもニュートラルな、鼓膜の抜けたような圧倒的な静けさ。振り返っても、見渡しても、山も谷もない。何かもっとあったような気がするのだけれど、どうしてなんにも見あたらない。
それでも、かろうじて過去にあった種々の出来事がわずかな隆起を見せていて、自然、それについて思いをはせることになる。たとえば親戚のおじさんのことなどで、ひとつひとつ思い出していると、ああそうだ、あのおじさんはもうとっくに死んだんだったっけ、などと気づく。
それから、いつかの悲喜こもごもの場面場面が、とりとめもなく、ひらり、はらりと、枯れ葉が落ちるように思い浮かぶ。そうこうしていると、ふとどこかで匂ったことがあるような香りが鼻をつき、漠とした懐かしさが込み上げてきて、居た堪れないような心持ちになったりする。とにかくは時間が流れたのだということを思い知る。ちょうど枯れ葉が池に落ちて水紋を作るように、胸中にさびしさが広がる。
そのさびしさは今この瞬間の現在にあるようで、しかし実はいくらか過去にある。だから今今、どうこうできるものではない。だから、誰かがいれば、何かがあれば即解消されるというようなものではないのである。
一方、若者のさびしさは常にリアルな現在形である。今今、友人がいれば、恋人がいれば、それでたちまち解決するのである。しばしば若者は向こう見ずで短絡的だと言われるが、それは当然のことである。若者だけが真実、今この瞬間を生きることができるのである。
なぜか。過去には質量があるからだ。つまり重さがあるのである。歳を取れば取るほど、過去が増える。どんどん重くなる。引きずるようにもなる。だから快活さが減ずる。軽薄な振る舞いが叶わなくなる。比喩のようで比喩でない。中年も過ぎればどこかひとところに腰を落ち着けたくなるのは自然の摂理なのである。
そうして人生は収縮してゆく。納まってゆく。つつがなく過ぎゆく日々。ありがたくも平穏な日々。そしていよいよ過去は膨張し、抱えきれなくなり、ついには床に伏せって潰える。――35歳。最近、酒を呑んで尻のあたりに尋常ならざる重みを感じるのは、ある種の自然への不毛な抗いのせいなのだろうと、私は思う。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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