大事に思っていたけれど

最終更新: 2017/08/22

今まで十回以上引っ越しをしているが、今度のはすこし勝手が違う。

海外にはほとんど何も持って行くことができない。気に入っていたテーブルや椅子、小さな棚さえも持っていくことができない。あちらは家具付きが普通であるし、何より送料がとんでもない。

なので、ほとんどの家財を捨てざるを得ない。これは愛着の問題でもなければエコの問題でもなく、無味乾燥な経済の問題である。単にそのほうが圧倒的に安い。

今に始まった話ではないが、お金に選択を制限されるということは、いつもどこかもの悲しい。たとえば、まだ十分に使えるし気にも入っていた椅子。つい2、3カ月前までは、家で焼肉なんかするとこの布製のクッション部分に油煙や臭いが染みついて嫌だなあ、長く大事に使いたいのになあ、などと思っていたものが、もはや笑うしかない杞憂に終わってしまった。

別にその椅子に限った話ではない。そういうことは、人生においてままある。つまり「大事にしきる前に、大事ではなくなる」ということが、非常によくあるのだ。

極端なことを言えば、たとえ親でもそうだろう。幼少の時分には、誰しも一度や二度は、お母さんやお父さんが死んだらどうしようなどと考え、言いようのない不安に駆られたことがあるだろう。しかしそんな心配が現実になる前に、「触んな!」、「ほっとけ!」とかいう反抗期が訪れたりする。

考えてみれば、ある何かを完全に最後まで大事にするなどということはあり得るのだろうか。なんせこの世は諸行無常であって、世の中も移り変われば自分自身もまた変わる。それはもう恐ろしいほどの目まぐるしさで、大事なものがゴミに、ゴミだったものが大事になったりさえもするのである。

よく、「一番大事な〇〇」とか言うが、それはいつまで一番であり続けるのだろうか。そもそも本当に大事なものなどあるのだろうか。そんなことを考えながら、家からひとつひとつ家財を捨てていき、ようやくで半分ほどを始末した。しかし、何ら生活は変わらず、不自由でもなんでもない。てっきり財産だと思い込んでいただけで、実際あってもなくてもいいものばかりだったのである。

聞くところによると、ユダヤ人が知識や学問を大事にするのは、しばしば虐げられ理不尽な流浪を強いられてきた彼らにとって、頭脳だけは決して奪われず盗まれないという考えからだという。なるほど、実際、いま私の所有物から何が無くなったら一番困る、あるいは嘆き悲しむかと考えてみるに、たとえ家ごと消えてもなんともないのである。

どうせこの世は仮住まいとはよく言ったもので、いくら気負ってみたところで、誰もかれも、今、ちょっと、とりあえず、ここで息させてもらっているに過ぎないのであろう。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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