ネギについて、云々
スーパーからの帰り道、ネギを落とした。
ぼとり、と言った。それは「ぼとり」という擬音以外のなにものでもなかった。
「ネギ落とした」——私はひとり、そう小さく口にした。
確かにネギは長くて、買い物袋からもはみ出ていて不安定ではあった。とはいえ、そうそう落とすものではない。
私はネギを拾いあげ、買い物袋に戻す。ふたたび歩き出して、そういえばと思う。ネギを落としたのって、生まれて初めてなんじゃないかな。いや、いつかも同じように落としたような気がする。よくわからない、だけど。
それはともかく、ネギを落とすって、何かの暗示なんじゃないかな。吉兆かもしれない。ほら、「鴨ねぎ」って言葉もある。でも、肝心の鴨がない。鴨ねぎに鴨がなかったら、ただのネギだ。
ネギ、ネギ、ネギを落とす。何かあるような気がする。労い(ねぎらい)とか、って単なるダジャレだけど。あるいは初夢で縁起のいい野菜だったはずじゃあ、いや、あれはナスか。まあ、どうでもいいんだけど、ほんと、どうでもいいんだけど、さ。
すこしばかり晩酌をして、やれやれ今日も終わったと床につく。おざなりに一日のことを振り返ると、どうして、いの一番に浮かんでくるのは例のネギで、仕方がないのであらためてネギのことを考える。
人間にはさまざま運命があるから、今日私がネギを落としたのもまたひとつの運命かもしれない。だって、わざわざネギなんか落とさなくたってよかったわけで、にも関わらず私はネギを落とした。
やはり、何かあるような気がする。バタフライ効果っていうのか、そう、風が吹けば桶屋が儲かるとも言う。
そのネギが落下したことによって、何が起こったか、あるいは何が起こるのか。
仮に私の人生のすべてが神様の手中にあるのだとすれば、それがしは某日某所においてネギを落とすようにと予定されていたわけだ。しかし、何のために?
目が覚めて、いま、性懲りもなくまたネギのことが思い浮かぶ。ばかばかしい。だけど、このネギについて考え続けることと、愛とか仕事とか、一般に重要だとされている他の何ごとかについて考え続けることとの間にいかほどの違いがあるのかと言えば、実際、かなりあやしい。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
ご支援のお願い
もし当ブログになんらかの価値を感じていただけましたら、以下のいずれかの方法でご支援いただけますと幸いです。
Amazonギフト券で支援する
→送信先 info@tomonishintaku.com
ブログ一覧
-
ブログ「むろん、どこにも行きたくない。」
2007年より開始。実体験に基づいたノンフィクション的なエッセイを執筆。アクセス数も途切れず年々微増。不定期更新。
-
英語日記ブログ「Really Diary」
2019年より開始。もともと英語の勉強のために始めたが、今ではすっかり純粋な日記。呆れるほど普通の内容なので、新宅に興味がない人は読んで一切おもしろくない。
-
音声ブログ「まだ、死んでない。」
2020年より開始。ロスのホームレスとのアートプロジェクトでYouTubeに動画をアップしたところ、知人にトークが面白いと言われたことをきっかけにスタート。その後、死ぬまで毎日更新することとし、コンテンツ自体を現代アートとして継続中。
-
読書記録
2011年より開始。過去十年以上、幅広いジャンルの書籍を年間100冊以上読んでおり、読書家であることをアピールするために記録している。各記事は、自分のための備忘録程度の薄い内容。WEB関連の読書は合同会社シンタクのブログで記録中。