風呂の中から、だらり、訴える
2017/08/22
哲学者キルケゴールの言葉。
「退屈とは高貴な行為である。退屈を知らない人間は、野卑で低俗でくだらない人間だ」
一読した直後、僕はへぇ~と感心したんだけど、今になってみるといまいち真意がよくわからない。
このブログを初めて二年近く(合ってる?)になるけど、今日は初の試み、浴槽の中で書いている。(あほ!気持ち悪くない!)
どうでもいいけどボタンを押す音がやたらと響く。
どうでもいいけど、僕の携帯は防水なので安心なのだ(逆に言えば防水じゃないと不安)。
今朝、いつものごとくある種の二宮金治郎スタイルでご飯を食べながら原田宗典の本を読んでいると、こんなことが書いてあった。
便利なこと、便利になることが悪いと言ってるんじゃない。ただ、電話のコードを無くしてポケットに入れる必要があるのか、ということを言いたいだけだ。少なくとも僕は「その必要はない」と思っている。便利さが過剰なのだ。
というような趣旨のことが書いてあった。まあ携帯電話のことね。
ああ~、と、僕はうなってしまった。少なくとも僕は携帯依存症と呼ばれる部類の人間だと思う。四六時中、気になって気になって仕方がないのだ。
と言ってもそれは「誰からもメールがない!」というような「とにかくは誰かと繋がっていたい」というようなものではなく、「誰々(特定の人)からのメールがない!」という性質のものではあるんだけど、まあそれは五十歩百歩で、携帯依存症に違いない。
携帯電話の登場によって、人といつでも繋がれる、ということを私達は“得た”。
しかしそれと同時に、孤独になる、自分と向き合う、他人の気持ちなどを想像する、家族や世間から軽く行方不明になってみる、というような時間を“失った”のである。
我々は無限ではない。もちろん完全でもない。手を伸ばしても太陽に届くはずもなく有限で、呆れるほどに不完全だ。
得られたものの裏側で失われたもの、それらに思いを馳せねばならない。
すべてを得ることはできない。取捨選択せねばならない。
何が欲しいのか、何が必要なのか。またそれを本当に欲しているのか、本当に必要なのか。
考えなければならない。
なんか美談なていでまとめようかしてるきらいがあるけれど、本当によくよく考えたら、欲しいものも、必要なものも、それほど多くはないはず。
いやいや、別に出家するわけじゃないから。肉も食うし酒も飲むし結婚もするから、な。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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