走る、絵を描く、実家に帰る
2017/08/22
今日の朝起きてからの流れがそれ。で、今は新幹線の中。
で、新幹線の中は退屈だろうからちょっと手の込んだブログを書こうと決めていた。けど、画像は、今朝microSD内の画像をパソコンに移し替えたせいで画像のストックが無くなってしまったので本体内にあったよくわからない画像を載せてみた。悪いか?
先日も引用したが、今日もまた同じ本、石井淳蔵著、「ブランド 価値の創造」からまたしても引用。長くて悪いけど、興味深いからはしょらず引用。ちゃんと読んで、ね。
たとえば、アルマーニなどのブランドを着ていると、一目でそのデザイナーがわかる。それは署名されたスタイル、とでもいうべきもので、これがファッションの本道である。
私の専門にしている建築のデザインについても同じである。独自のスタイルがある日確立されると、流行というメカニズムは、その作者に同じスタイルの再生産を命じる。
ここではデザイナーがブランドとしてひとつの記号となる。今日のデザイナーのみならずアーティストも含めて、誰もがその枠組みを強制的に守らされている。
(磯崎新「反スタイル・イッセイ・ミヤケ論」「広告批評」1994年11月号、マドラ出版)
建築家の磯崎新氏は、このようなある一定のスタイルつまり「制作者の名前が署名されたスタイル」を続けることを強制されることを「スタイライゼーションのメカニズム 」と呼んでいる。そして磯崎氏は、スタイライゼーションのメカニズムは、そのファッションのブランドを長くすることにつながらないと考える。
つまりそうしたスタイル自体が消費されてしまうと、そのファッション・ブランド自体も消えてしまうことになるというわけだ。そうした競争の中で、きえていくファッション・デザイナーは無数にいると、磯崎氏はいう。
引用終わり
もうちょっと先まで引用したかったのだけれどあんまり長いしめんどくさいからやめておく。
スタイルは消費されてしまう、これはもっと意識すべき、考えるべきことではないだろうか。
カップラーメンが発売された時、原宿の歩行者天国ではカップラーメンをフォークで食べながら歩く若者がたくさん居たという。そしてまたそのスタイルがかっこいいと思われていた、らしい。
しかし現代、そんなことをしている奴は一人もいない。見たこともない。居たとしたら「頭がおかしい」と普通に思ってしまう。
つまりそのスタイルは大衆に歓迎されて取り込まれ、消費されて打ち捨てられてしまったのだ。
この本を読み進めると、スタイルを超えたもの、スタイル自体を包含するようなものを打ち立てなければならない、というような主張が出てくる。
スタイルを確立することは確かに重要だ。しかしスタイルを確立し、それが人々に歓迎されたとしたら、その瞬間からそのスタイルの衰亡のカウントダウンが始まっている。
たとえば、スタイルが無いというスタイル、であればきっと寿命は長いだろう。
もしくはごくゆるい、というかいくらでも拡大解釈できるようなコンセプトのもと、様々なスタイルを展開していく、これもまた息が長いものになるだろう。
イッセイ・ミヤケであれば、スタイル以前に大前提なコンセプトとして「一枚の布」という考えがある、らしい。なんとなく知っている人も多いと思うけれど、一枚の布をモデル自身にハサミで切ってもらってそれを着る、という作品などはその典型なのだろう。
とかなんとか言ってもあんまりミヤケイッセイのこととか知らないんだけど、一枚の布、なんて、どれだけでも幅広く解釈できそうだ。ファッションとは一枚の布である、とするならば、ただ毛布にくるまることも、シートベルトをすることも、足拭きマットの上に立つことも、良し悪しは別としてそのすべてがファッションとして成立しうるではないか。
たとえば「これが岡本太郎のスタイル」と言われたとする。
その時、我々は何を思い浮かべるだろうか。おそらくはあのけばけばしい極彩色な作品群ではなく、目をカッと見開いて両手で何かをぐわっとつかもうとしている、岡本太郎その人自身ではないだろうか。
岡本太郎の場合、スタイル(作品)を包含するものとして、岡本太郎自身の存在があるのだと思う。
岡本太郎があのような、月並みな言葉で言えば破天荒な人でなかったとしたら、岡本太郎の作品(スタイル)は、もっとずっと低い評価しか得られなかったのではないだろうか。
ARTDISFORのスタイルを確立したいなあ、なんてぼんやり考えたり思ったりしていたけれど、そのスタイルを支えるもの、いわば“メタスタイル”を、今一度考えてみたほうがいいのかもしれない。
って、今日は長々と真面目くさったことを書きつらねてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
深く反省し、明日はきっとヘルシーリセッタ(食用油)くらいには軽い内容にしますから。
広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。
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