芸術について考える、大人

最終更新: 2017/08/22

つまり、どこにも行きたくない-DVC00338.jpg

画像はサムフランシスの画風の失敗。絵の具を飛び散らかすだけなのに、なかなか難しいもんだと思い知る(このあと白で塗り潰しやり直し中)。
最近、くそ真面目に「芸術とは何か?」ということをずっと考えている。眠る直前まで、それは芸術とはいえない、いやいやこうならば…… などと逡巡しているうちに眠りについている、なんて、いかにもぶってるみたいだけどこれが本当の話だからカッコイイのである、というかカッコイイと思われたく言われたいのである、て、あ、久々にこういうくだりを書いた、な、そうだおれってこんな感じだったんだ、だっふんだ。
でまあどうでもいいけど、大の大人が、金にもならないことをむちゃくちゃ真剣に考えている。同い年のあいつやあの子は今頃どうなってるだろう。少なくとも芸術のことで頭がいっぱいなわけはないだろう。
とはいえ、いい加減ばかばかしいなあ、と結構フツーな僕はそのような感慨もしっかり抱くのであって、が、その反面、これこそ我が生きる道、と思えたりもする。
唐突に芸術について話そう。
現代において芸術とは「何が芸術か?」ではなく「何を芸術とするか?」が基本だと思う(最近芸術関連の本を読みあさってるので影響されまくりで僕の頭が考え出した論理じゃないかもしらんがまあ人間はそんなもんなのだ)。
たとえば、美しい花を描いたらそれが即芸術とはならない、現代においては。
美しい人や壮大な自然をキャンバスに鮮やかに描き出す、それがそのまま芸術になっていた時代は確かにあった。
しかしデュシャンの「泉」以降、「何が芸術なのか?」という価値観の転覆が起こった。現代もその問題が未解決のまま続いているのである。
美術館や批評家といった制度が何を芸術とするかを決めていると言ってしまえばそれまでだが、その前の段階、作家が何かを創り出すときには、作家自身がまず考えなければならない。「何を芸術とするか」ということを。
そしてまず定義しなければいけない。ウンコならウンコでいい。それをなにがしかの手法で芸術と定義しえるならば、あるいはそれは歴史に残る作品になることも全然可能である。
そんなことをぼやぼやぼやと考えて、さて僕は何を芸術と定義しよう? と考えている。僕の考える芸術をどのような方法で呈示するか、自己の主張をストレートに込めるにはどのような手法が最適なのか、とかなんとか。今までを振り返りつつ。
そんなこと、今まで考え終わったことのような気がしてたけど、ああ、こんなことって実はよく考えてなかったな、と気づいた。
特になんの疑いもなく絵の具で好きな絵を描くそれが芸術バリバリバリ~、という感じでやってきた気がする。
もちろんそれはそれでいいんだけれども。
とにかくは今は、芸術のことを考えたい。飽きるまでは、もうしばらくは。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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