死ぬのはいつも他人ばかり

最終更新: 2017/08/22

早朝、ドアの前にアブラゼミの死骸が転がっていた。

よけて歩いた。すると廊下にもう二匹、転がっていた。それもまたよけて歩いた。と、一匹がビビビと鳴きながら飛び上がった。しかし、そう高くも飛び上がれずに、コンクリートの床に落下して、いかにも打ちどころの悪い音を立てた。

階段を降りると、途中に、また一匹死んでいた。1階の廊下にも、もう1匹死んでいた。

道路に出ると、ぼくはおざなりな伸びや屈伸をして、走り出した。遠くの空がわずかに白んではいるものの、日が昇るにはまだ小一時間はありそうだった。

やたら死んでるなあと思う。さっきのセミ。そもそもセミって、あんなに死んでるもんだったっけ。しかもあんなに人目につくとこで堂々と。なんかこう、樹の下とか、どっか駐車場の端っことか、そういうとこで死んでるもんじゃなかったっけな。

幼いころの記憶を辿ってみる。生きているセミならばいくらでも出てくるが、死骸はほとんど皆無である。むしろ、セミの抜け殻のほうが多いくらいだ。そう考えると、やっぱり、あんなに死骸が転がっていることに違和感を覚えざるを得ない。

とにもかくにも夏が終わるんだなあと思う。いつ始まったかもよくわからないけれど、あいまいなのにしっかりと、夏が終わるんだなあと思う。昔はバチンバチンと音がするように明確な区切りがあって、ここからが夏! ここまでが夏! という感じだったのに、今ではすべてがずるずると納豆の糸のように途切れなく流れていく。ついでにぬるぬるともして、とりとめもなく締まりがない。

こうして、たいした山も谷もなく人生が閉じていくんだろうなあ……タッ、タッ、タッ。走る。

2、3週間ぶりのランニングだが、それほど息は上がらない。マッスルメモリーというやつだろう。最近、ランニングをするたびに思う。筋肉の記憶。2、3ヶ月、あるいは2、3年も運動をしなかったとしても、筋肉は過去に運動していた筋肉の状態を覚えているのだという。だから、昔しっかり鍛えていた人は、その後また鍛え直すのも容易らしい。

それはさておき、セミの命は一週間。そのことを切ないとか儚いとか人は言う。

先日読んだ本に、こんなことが書いてあった。

この世との関係のすべてが断たれる死は、孤独の最たるものである。しかし、何らかの原因で人類全員が死亡するという場合には、恐怖はあっても孤独は感じないのではないだろうか。

まあ、だいたいこんな感じの内容だったと思う。確かに、みんながみんなきっかり一週間でばたばたと野垂れ死んでゆくセミたちは、死ぬことが恐怖ではあっても孤独ではないのかもしれない。

試みに、いろんな人といっしょに死ぬことを想像してみる。しかし、誰といっしょに死んでも嬉しくもなんともねえなと思う。というか、他人の死はたやすくリアルにイメージできるのに、自分の死だけはどうにもうまくイメージすることができない。

だからかもしれない。自分の命だけはやけに軽々しくて、暑い暑いくらいに死ぬ死ぬ言ってはばからない。

たぶん、自分は絶対に死なない気がするのだ。生から死に転じるその瞬間を徹底的に細分化してゆけば――アキレスが亀を追い越せないように――私は決して死ぬことがない。

なんて、パラドックス。だけどどうして実感だけは、マルセル・デュシャンの言うように「死ぬのはいつも他人ばかり」で、みんな死んで自分ばかりが生き残ってしまう。

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新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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