アレという名の震災(東日本大震災から5年目の感慨)

  2016/04/08

東日本大震災から五年が経ったらしい。

〈らしい〉などと、わざわざもったいぶって言うのは、私がそれほど社会的な人間ではなく、非常に個人的な、もっと言えば自己中心的な人間だからである。

それで、実際のところ、今日も今日とていつも通りの駄文を書き流そうとしていたが、やはり、そういうわけにもいかないのではないかと考え直し、筆を執った次第である。

震災について語る時、悲惨だったとか大変だったとか、あるいは問題はまだ全然片付いちゃいないんだとかいう当然論じられるべきことがらは賢明な社会派諸氏にお任せすることにして、私は屁にもならない我が道を、それこそ屁を垂れながら行きたいと思う。

さて、何を書こうかと考えて、はたと思いつく。昨年よりしこしこと取り組んでいる、書きかけの小説である。その中の一場面で以下のようなことを書いていたのだが、なるほど、自分の思うところのいくらかが現れているような気がする。

『新幹線に乗っている。実家に帰っている。というより、東京から逃げ出しているという感覚のほうが強い。
昨日、とんでもない地震があった。あれほどリアルに死ぬと思ったのは、生まれて初めてだった。昼休憩から戻ってきて一息ついたところで、突如揺れ始めてもぐりこんだ会社のデスクの下で、冗談抜きで走馬灯が見えた。その頭の片隅で、さすがに会社では死ぬたくないと思い、じゃあ何をしていてどこでなら死んでもいいのかと考えていたが、結局はとにもかくにも死にたくない。ただそれだけだった。
だけど今日、それよりももっと衝撃的なことがあった。コンビニやスーパーの棚という棚が、買い占めか供給不能かその両方かで、強奪にでも合ったかのように根こそぎ商品が消え去っていたことだ。いっそまったく商品が無かったなら、これほどのショックは受けなかったのかもしれない。だけど、まばらに残されている残骸のような商品が、人々の不安と混乱を痛々しいほどに生々しく伝えていて、見慣れた風景は完全に異常な風景に変貌していた。それは恐ろしく不気味で、突き上げるように得体の知れない不安を煽った。もしかすると、わかりやすく死体でも転がっていたほうがよほどマシだったかもしれない。私は立ちすくむようにその光景に圧倒されて、自分も何か買わなければと気ばかり焦りながら、ほとんど何の足しにもならない残りカスのような〈柿ピー〉をたった一袋だけ買って帰ったのだった』

もちろん〈柿ピー〉のところなどは間の抜けた効果を狙った創作であるが、全体的には、まあそんな感じだと思う。それから今になって思うことと言えば、私は死ななかった。生きている。死んでいない――。実際のところ、それが私にとっての震災のリアルだろうと思う。いや、もうひとつ。あの日、どうにかこうにか亀の這うようにしてかろうじて動いた電車を乗り継いで、日付の変わった3月12日の午前2時か3時くらいに家に辿り着くと、戸棚からコップがたった一つ、落ちて割れていた。それだけである。

アレから何もかも変わったような気がするし、何も変わっていないような気もする。何かにつけて社会的な感度の低い私には、震災があろうがなかろうが、相も変わらずふつうの五年だったような気がする。一応それらしく真摯に「おまえにとって震災とは何か?」と問うてみるも、どうして自分の中には恐ろしく空疎な感慨と言葉しか見当たらない。

それはたとえば、『歳取った』であり『下腹が出てきた』であり『禿げるのが心配』であり『いつまでサラリーマンをやるのか』であり『いつ結婚するのか』であり『子供は作るのか』であり『どこに住むのか』であり『どう生きようか』でありと、それはもううんざりするくらいてめえのことばかりで社会的なことなど何ひとつ出てこないのである。

私は馬鹿なのだろうか? そうなのかもしれない。だけどそれならそれで仕様がない。アレから五年アレから五年と考えて、時間が経ったなとは思うが、それ以上ではない。せいぜいが何かしら作品をつくる時に、批評家連中の言う〈震災以降の作品で震災のことを考えていない作品などあり得ない〉という言いつけを〈ちゃんと守ろうとする〉くらいのものである。

この五年で何ができただろう。これからの五年で何ができるのだろう。そもそも五年とはどういう時間なのだろう。アレから五年アレから五年アレから五年。そう呪文のように唱えていると、その時間の流れ自体が、ちょっと冗談みたいに嘘くさくなってきて、ほとんど夢のようにかすんでくる。

私は生きている。本当だろうか。私は死んでいない。本当だろうか。私は絶対に死ぬ。それはたぶん本当だろう――。言葉遊びのようにとりとめもなく言葉を弄んでいると、ふと何か浮かび上がってくるものがある。それはどうやら〈疑い〉というやつで、難しく言えば〈疑念〉というやつで、そうだ、私は疑い深くなったのだと気がついた。

疑えば疑うほど、嘘に耐えられなくなってくる。笑えない嘘が多すぎる。嘘も方便と言うが、その嘘と方便の境界線をはっきりと明確に示さなければ許されないのが今なのだろうと思う。誰が悪くて、何が悪いんだろう。全然よくわからない。

私は歳を取っただけかもしれない。それで、老化に伴う自然な厭世感の漸増によって、すこしこの世に疲れているだけかもしれない。でもまあ確かに、五年前の震災が起こるまでは、もう少し気楽だったような気がする。嫌らしい抽象的な言い方をすれば、もっと、明るかったような気がする。

でも、それは全然確信ではない。今よりも若かっただけかもしれない。そんな気がするだけだ。ただの気のせいかもしれない。

新宅 睦仁/シンタクトモニの作家画像

広島→福岡→東京→シンガポール→ロサンゼルス→現在オランダ在住の現代美術家。 美大と調理師専門学校に学んだ経験から食をテーマに作品を制作。無類の居酒屋好き。

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