美術家 新宅睦仁のブログ。ほぼエッセイ、ときどき現代の美術とアート。

愛と正義の誰かしら

    2017/08/22

見ていて感心する。説明を聞いて感嘆する。すばらしい働きだなあと思う。

どこかのCMではないが、人材ではなく”人財”とは、このような人のことをいうのだろうと思う。

私が受けたのと同じような試験や面接だっただろうに、雲泥の差である。会社にとってみれば同じ10万なり20万なりを支払っているにも関わらず、費用対効果、いわゆるコスパの差に目がくらむ。

そこで問われるのは面接官の見る目ということになるが、自ずと限界はある。そうして結局は運だか縁だか、そういう”神がかり”的なものがほとんどすべてなんだろうなと思う。

そう考えると、私という人間は神がかっているのかもしれない。たとえば、この世に労働における”正義”というものがあるとすれば、私は真っ先に裁かれ排除される人間だろうと思うから。

仕事は最低限のクオリティしか出さず、絶対に残業は引き受けず定時に退社。その他もろもろ、ここに書くことがはばかられることばかりやっている、我ながら最低最悪の人材である。私のような人間がのうのうと一端の会社員ヅラをしていていいわけがない。しかし、事実のうのうと生きていて、それでもう何年もやり過ごしている。

世の中は不公平だと思う。呆れるほど不平等だと思う。正義は常に虐げられている人々によってこそ真摯に問われる。安穏としている人々にとって、正義は概念の域を出ない。すなわち、正義は正義という言葉以上のものではない。

ところで最近、読書会で毎月お会いしている荒木優太さんが、群像新人評論賞を受賞(優秀作)した。普段は群像なんてまったく買いも読みもしないが、彼が読書会で振るう熱弁には非常な好感を持っていたので、ちゃんと買って、読んでみた。荒木優太「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」という評論である。

内容は、決して易しくはない。一応は読み終えたが、たぶんほとんど理解できていないし、できていたとしても誤読ばかりだろうと思う。それでも、漠然とよかったと思う。特に、「正義が必然を偶然に変える力だとすれば、愛は偶然を必然に変える力である。」というフレーズには、思わずしびれてしまった。

が、しびれたくせに、その意味するところはいまいちわかっていない。「愛は偶然を必然に変える力」だということはよくわかる。たとえば、この世に70億の人がいて、異性はその半分の35億程度、それから恋愛対象となる年齢を絞り込めば、まあ10億程度。愛は、その10億すべてを見て選んだわけでもないのに、「この人しかいない」と思い込み、偶然でしかない出会いを必然だと信じ込む。なるほど、「愛は偶然を必然に変える力」である。

一方、「正義が必然を偶然に変える力」というのはどうか。ロールズという人は、偶然を正義の力で救うべきだと考えていたらしい。たとえば、生まれながらに手や足がない、不器量である、貧乏な家に生まれた、親がいない等々、自分の力ではどうすることもできない”偶然”の不幸を、正義の力――行政や福祉など――で回復させる。

”偶然”とはいえ、一度現実に起こってしまえば”必然”でしかない。だからその必然を、あなたはあくまでも”たまたま”そのように生まれついてしまっただけであって、その重責をあなた一人に負わせておくのは不正義である。社会全体で救わねばならない。よって、「正義は必然を偶然に変える力」なのである。

ロールズはつまり、世の中の幸・不幸の凸凹を均して平坦にしようと考えていたのではないだろうか。そう考えると、極端な幸福もまた不正義であり、正されるべきだということになる。こう言うと違和感を覚えるかもしれないが、それはよく言われる、居眠りしながら高給をもらっている議員のような人々は裁かれるべきだという、庶民の生活感情丸出しの義憤に他ならないだろう。

ここでもう一度、私についての話に戻ろう。ロールズのいう正義の鉄槌がこの世にあまねく下されるならば、当然、私は裁かれ、”均され”るべき存在だろうと思う。しかし、そうなってはいない現実がある。というか、私のような小人はさておき、あらゆる不正義がこの世に存在し続けていることは誰しもがご存じの通りである。

真の正義の鉄槌は、いまだ下された試しがない。荒木さんは「正義を諦めるにはまだ早い」という言葉でこの評論を締めくくっているが、しかし、諦めるも何も、この世におよそ正義などあったためしはないというのが私の所感である。今も昔も、搾取する者とされる者との二項対立、統べる者たちの高笑いと庶民の青息吐息が、正義などという理想に圧倒的に先行して存在するばかりである。

そこで正義は、現実を理想に変える力として作用する。つまり、理想という到達点を設定することにより、現実と理想とを地続きなのだと仮定する。そうすれば、今の現実は、輝かしい理想に向かう一地点であり、奮励努力して生き抜くべきものとなる。いわば、受け入れがたいような苦い現実を、理想でくるんで甘いかのように食わせるわけである。もちろんそれは見せかけであるので、ちょっとでもかじればすぐにその本質である苦みに気づかされてしまう。そこで愛の登場なのだ。我々はキリストの受難以前から、ありとあらゆる愚かしさを発揮してきたにも関わらず、どうにかまだ滅亡していないのはひとえに愛によるのである。

愛は現実を受容する力である。キリストはユダが自分を売り、ペトロが自分のことを三度までも知らないと言うということを知りながらも、逃げも隠れもせずに鶏の鳴き声を聞き、ただただ引かれていき、磔刑に甘んじたのである。

それはなぜか。この、幸不幸があまりにも恣意的に散在している現実世界を、それでも受容する価値があるのだと教えるためである。どんなことがあっても生きていく価値があるのだということを身を持って知らしめるためである。

ここでひとつ、僭越ながらパロディといこう。「正義が現実を理想に変える力だとすれば、愛は理想を現実に変える力である」なんて、完全に荒木さんに感化されているだけだが、おまけにもう一つ、「愛を諦めるのはまだ早い」、というわけで、了。

新宅 睦仁

1982広島県生/2005九州産業大学卒/2013新宿調理師専門学校卒/現代美術家/ロサンゼルス在住のカトリック。牛丼やカップヌードル、コンビニ弁当等、食物をテーマに作品を制作している。無類の居酒屋好き。
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